期日
・2024(令和6)年4月25日(木)
コース
・簗場駅⇒南神城駅:2時間30分*1
目的地が異なりますし、実際には姫川源流へ寄り道していますので、あくまでも参考タイムです。
ラインが描画できないため空白になっている部分がありますが、実際には徒歩道があります。
今日はまず、目的地の神城駅前に車を置き、大糸線で簗場駅まで戻ります。中綱水神社(再掲)から千国街道へ入り、北へ進みます。
1 JR簗場駅
「1929年(昭和4年)9月25日:国鉄大糸南線の信濃大町駅 - 当駅間が開通し、開業。1930年(昭和5年)10月25日:大糸南線の当駅 - 神城駅間が開通」*2
今日歩くのはちょうどこの「当駅ー神城駅間」になります。
そういえば、簗場駅の一駅北にはかつて「ヤナバスキー場前駅」があって、子どもたちをスキーに連れてきたことがあります。駅を降りてすぐにスキー場があり、大変便利でした。
「1985年(昭和60年)開業。スキーシーズンのみ列車が停車していた。2016年(平成28年)ヤナバスキー場の営業休止により、同年度から当駅を停車する列車がなくなる。2019年(平成31年)スキー場営業再開の見込みがないことからダイヤ改正に伴い廃止」*3
2 中綱湖の山桜
大町市観光協会『信濃大町なび 桜開花情報』*4では「見頃」。昨日の雨にも負けず期待通りの桜です。
簗場駅を降りてすぐの中綱湖はご年配のカメラマンがたくさんたくさん。附近の駐車場も満杯。県外ナンバーの車が多くて驚きました。
そんな中、水鳥が悠々と泳いでいます。
対岸にはトイレ(オレンジ屋根)や東屋が見えます。今日はこの桜の中を通って歩きます。
少し離れたところから見た中綱湖の全景です。小さくて美しい湖です。
これから歩いていく中綱の集落にもたくさんの桜が咲いています。
民宿の並ぶ通りに面白い看板がありました。
3 中綱湖の主
中綱水神社隣の民宿「中綱館」*5の駐車場にこんな立札がありました。
この民話には次のエピソードも伝えられています。*6
「ひどい日照り続きのとき、村人の夢の中に如来様が現れ『雨を降らせるには、湖の鐘と岸辺の(十国寺の)鐘を紐で結ぶのじゃ』と告げた。
紐を結ぶと雨が降り、雷の音にまじって、鐘の音が聞こえてきた。村人は『湖の鐘はいい音色だいね。』『如来様のおかげじゃ』と喜んだ。
今でも中綱湖の岸辺に立つと、どこからか鐘の音が聞こえることがあるという。」
4 中綱水神社(再掲)*7
簗場駅から350ⅿ。中綱水(すい)神社。
今日は4月25日。お堂の陰にはまだ雪が残っています。
前回の千国街道歩きはここまででした。今日はここからスタートです。神社の裏(西)の道を北へ進みます。
私の住む安曇野市では花が散ったチューリップですが、ここでは咲いています。
5 氏神社(春日社)*8
中綱水神社から北へ250ⅿほど。中綱湖が少し見える辺りにお堂がありました。
何のお堂だろうとみてみると、面白いことに気づきました。
このお堂、道路の方を向いていないのです。道路側はお堂の裏側。写真のお堂の右、狭い基礎部分(コンクリート)から落っこちないように気を付けて参拝する配置になっています。
気になったので、家に帰ってからGoogle マップを見たら、次のようなクチコミ(山越健一さん)がありました。
「この氏神を祀っているのは、この村に3つしかない氏族のひとつ、西澤氏だそうです。この社殿の前で偶然、その西澤家門の一員だというお爺さんに出会って話を聞くことができました。
室町時代から仁科氏の家臣だった領主たちによる仁科高原とその北にある佐野坂峠、そして白馬村へと移住して農地と集落を開拓する動きが始まったそうです。
そのうちのいくいつかの家門が中綱湖の西岸――当時は広大な湿原と湿地帯――に根を下ろして集落を営み、水田地帯を開いたようです。
そして、家門ごとに集落の要所に氏神社を設けて祀ったそうです。」
このお堂は、西澤氏の人々が日々、集落(自分の家)から見上げて拝むように配置されているのではないか…、そう思いました。妄想かもしれませんが。
(あるいはお堂の前を通っていた道が、お堂の後ろに付け替えられたのか…)
6 桜の道
氏神様から7~800ⅿほど、中綱湖を見下ろしながら湖岸の道が続きます。今日は満開の山桜が楽しめます。
桜のトンネルをくぐり、花びらの絨毯を踏みながら歩きます。
対岸から見えた東屋やトイレ(オレンジ屋根)*9の上に着きました。
千国街道を南から歩いてくると、この辺りで中綱湖の湖畔に出ます。
中綱湖は仁科三湖の中で一番小さな湖です。
「面積:0.14km2、最大水深:12m、周囲:2,200m。
糸魚川静岡構造線による地溝上に出来た構造湖で、西側には北アルプスが控えている。流入河川は青木湖から流出する農具川であり、そのまま流出河川となり木崎湖へ注ぐ。」*10
かつては冬になると結氷し、ワカサギの氷上穴釣りができました。
車道と合流しますが、車止めがありますのいで、安心してのんびり歩けます。
この辺りが最も桜の多い場所だと思います。
杉林の中を進みます。
7 中綱湖北端
中綱湖の北端に出ました。写真手前の農具川は青木湖から中綱湖へ流入しています。桜の枝の向こうに中綱湖が見えます。
8 青木
中綱湖北端から北へ300ⅿほど歩くと青木湖が見えてきます。
「面積は1.7km2で、長野県内では諏訪湖・野尻湖についで3番目の広さ、標高822m、周囲長6.5km、全面結氷はしない、透明度が高く、水深58mは長野県内で最も深い。
流入河川が無いにもかかわらず水位が維持されていることから、湖底にかなりの量の湧水があると考えられている。流出河川は農具川で中綱湖、木崎湖へと繋がる。」*11
写真左の建物は、青木湖漁業協同組合の青木湖姫鱒養殖センター*12です。こちらではヒメマスとシナノユキマスの販売もしているそうです。*13
9 堂崎観音*14
青木湖が見えてから山側の道を進み200ⅿほど。
何故かお堂に向かって左の軒先に半鐘らしき釣鐘が下がっています。かつてはこの半鐘で集落の人々に危険を知らせていたのでしょうか。
観音堂の前には石仏群と案内板があります。
10 青木湖の主
堂崎観音から600ⅿほどのところ。
ヒメマス釣りのボートが浮かんでいました。かすかに見える白いブイにボートを係留して釣るのだそうです。
高いところから見下ろしているので、「長野県内の湖で最も深い水深58ⅿ」が実感できる感じがします。
「昔、青木湖の西の村で、大きい赤牛を飼っている百姓がいて、家族同様に可愛がっていた。
可愛い子牛が生まれ、湖の東の村へもらわれたが、母牛が恋しくて毎晩湖畔に出て鳴いてばかりいた。母牛も子牛と別れた悲しさで餌も食べず、瘦せ細っていく。
ある晩、東風が強く吹くなか、子牛の鳴き声を聞いた母牛は、綱を引きちぎり、湖を子牛の声のする東岸めざし泳ぎ始めた。が、湖のなかほどで力尽き、『ンモオーゥ』一声のこし沈んでしまった。
それからは湖へ引き込まれる人が多くなり、それは青木湖の主となった赤牛が、子牛に会えない寂しさから、人を呼び込むのではないかといわれた。」*15
11 秋葉崎
堂崎観音から700ⅿほど。
秋葉崎は青木湖に岬のように突き出しています。こここには自然教育園があります。
この辺りの道路沿いやキャンプ場の中にも桜がたくさん咲いていました。
12 エビスマ原
秋葉崎を過ぎるとキャンプ場やホテルなどが並ぶ平坦地になります。
エビスマ原には次の民話が残されています。*16
『えびすまっ原』
ここには昔鬼が棲んでいて、今の佐野坂あたりで稗などを作って常食とし、鳥獣を獲って暮らしていたとのことである。
これらの者は出雲(鳥取県)から来たものだと言い伝え、土地の人は大国主神を祀ったので、今の地名が起こったものだという。
『夢に見た金の瓶』
越後の国能生のボッカサ(歩荷さん)が「えびすま原」で昼寝をし、槐樹の下に金の詰まった瓶が埋まっている夢をみた。槐樹を見つけて掘り始めたが、金貨の固まりは青い光となって飛んで行ってしまった。
その夜、ボッカサの家に青い光が唸りながら入り、蛇体となって床の間にうずくまった。帰ってきたボッカサが荷杖で突くと金貨の山になった。
ボッカサの家は俄かに長者となり、杖と背負子を家宝として栄えた。
能生は糸魚川市街からさらに14㎞ほど離れています。遠い能生から歩荷さんが来ていたとは驚きです。
しかし、『大町市史』*17には次のように記されています。
「現新潟県西頚城郡の能生町あるいは現糸魚川市で北陸道から分岐した『三坂峠道』は、低平な小山地をいくつか越え、糸魚川市南部の山口まで来ると、信越境の山の斜面をなだらかに上る。」
そして、『図5 三坂峠への経路』には「糸魚川・山口」の経路の他に「能生(古泊)・山口」の経路が描かれています。
あるいは「延喜古道」*18から千国古道を通ったのでしょうか。
つまり、能生の歩荷さんたちは糸魚川を経由せずに、山を越え早川や海川を渡り、近道をして直接山口へ来ていたようです。
現在と比べ、能生は意外と近い存在だったようです。
13 四国三十三番観音*19
秋葉崎からおよそ1㎞。エビスマ原を過ぎ、街道が狭い山間に入って行くと、道の左(西側)に並ぶ石仏に気づきました。
「街道に沿って点々と置かれている。文政12年(1829)佐野村の庄屋文五郎らの発願により建てられた。
石工は高遠町の杖突峠近く、片倉村の伊藤堅吉。高遠は石工を輩出したところ。足跡は中部地方全域から遠くは関東・関西にまで及ぶ。(村宝)」*20
三十三番観音は佐野坂峠の向こうまでの1㎞ほどの間、旅人を見守ってくれています。
この写真の中に4体の観音様が並んでいます。間隔は十数メートル。
三面なので阿修羅像のようです。
石仏は千手観音が多いように思いました。救いの手は多い方がご利益ありそうです。
危ういお立場の弥勒菩薩様。見ている私の方がハラハラします。
でもご本人はこんなお顔。おそれいりました。
人生いろいろあるけれど、こんな顔をして生きていけたらうれしいなぁと思いました。
分かれ道です。どっちかな?
「こっちだよ」と、観音様が標柱と一緒に教えてくれました。
右側(東)には木の間に青木湖が見えます。
アヅマイチゲ(?)
14 佐野坂峠
峠が近づいてきたところに分かれ道がありました。直進は未舗装の山道、右は舗装された車道です。ここは直進でしょう。
ところが、すぐに山道を塞ぐ雪の山。ちょっと不安な気持ちになります。
でも大丈夫。雪山の先に千手観音様のお姿がありました。この道でもう間違いありません。
私も観音様のお導きで佐野坂峠を越えられそうです。
佐野坂峠は「大町市と白馬村の境にあって、南北の分水嶺となっている。植物相も太平洋型と日本海型とがここで合するという。
江戸期の紀行文に『青木の湖を過ぎて曠野あり。佐野村の内にて仁科の街道なり…』とある。」*21
15 鬼石*22
峠を下り始めると、岩の上に観音様が鎮座していました。この岩が鬼石か?と思いました。
観音様の向かいには「鬼石」の案内板があります。
案内板の後ろには大きな岩が二つあります。あまりなじみのない色と形です。
どうやら、これが鬼石のようです。(それとも観音様の下の岩も含めて、かな?)
鬼石には次の民話が伝えられています。*23
鬼石
山ぞいの道を、南から北へ向かって旅をしている鬼が、一つ二つ三つと、続いている湖を飛び越えて坂(佐野坂)の上で岩に腰かけて一休みした。
「どうれ、四ヶ庄平(白馬盆地)をひとっ飛びするか」と腰をあげ、「岩もひとっ飛びさせるか」と投げようとしたが、岩はびくともしない。
あきらめた鬼は四ヶ庄平をひとまたぎに飛んで行った。鬼が投げようとした岩は高さ三尺(約1m)あまりで、鬼のつめあとらしいものが残っていた。
西行の腰掛け岩
西行法師が、佐野の中ほどにある二僧庵に宿をとり、岩に腰掛けて村の子どもたちにねだられてうたをうたった。
「竹馬を杖ともけふ(きょう)はたのむかな わらはあそびを思いいでつつ」
また、村の人たちに薬草を与えて病を治したり、仏の教えを説いたりした。
西行が都へ立った後、村の人たちは西行の教えを守り、腰掛け岩のまわりをはき清め、西行をしのんだ。
一番大きな岩は上部が平らで腰掛けのように見えます。鋭いひび割れは確かに鬼の爪痕のようです。どちらのイメージにもピッタリです。
16 山犬の話
「昭和初年から数えて八十年ほど前までは、大町付近一帯にも獣がいたるところに居ったが、その中でも一番恐ろしかったのは山犬(狼)であった。
当時安築(安曇郡や筑摩郡)の商人は糸魚川街道を通って越後地方へ出て取引をしたものであるが、よく山犬がいて人を困らしたそうである。
その中でも『送り犬』というのが一番困ったそうである。夜道を歩くとちゃんと山犬がついて来る。人家の沢山あるところへかかるといつの間にかどこかへその姿を消してしまう。
それで、山犬につかれた時には『ご苦労だった。もういいから帰ってくれ』と言えば、どこかへ行ってしまう。
佐野坂を越す時などには、よく山犬に出遭ったそうである。」*24
17 三十三番観音の「一番」*25
鬼石を過ぎて5・60ⅿ。この観音様が四国三十三番観音像の第一番になります。番号は北から数えているのです。
一番だけあって(かどうか?)、繊細で巧みな彫りだと思いました。
でも、佐野坂峠で会った方は「自分は七番の顔が好き。ぜひ見てほしい。」と話してくれました。私は前に紹介した「危ういお立場の弥勒菩薩様」の達観したような表情に魅力を感じます。
様々な仏様がいて、それぞれにファンがいる。同じ仏様を見ても感じるものは人それぞれですね。
木の間に四ヶ庄平(白馬盆地)が見えます。その向こうの山々は糸魚川へと連なります。
「この街道は、青木湖以北になると、峠も多く、険阻な山坂道のため、いつの頃か山坂に強い牛が運搬用として使用されるようになった。
塩は牛が運び、ボッカは生魚や四十物(塩物や乾物)を運ぶようになった。
塩の輸送には、大急、普通、幸便送りの三種があった。大急は、糸魚川大町間を五日間で運び、普通は六日間、幸便送りは無期限であった。
その後は、生魚、塩魚の荷が激増すると、輸送も塩とは別に、速度も敏速になっていく。生魚については、一日売り(一日送り)二日売り(二日送り)と分かれ、一日売りは糸魚川を午後四時に出荷し、翌夕方大町に着荷する。松本へは、翌々朝午前七時迄に着くのである。・・
一日売りは、着いたその日に売られて食膳にのぼるので、軽い塩加減になっている。二日売り、三日売りになるにしたがい、その塩加減が増加していくわけである。・・
ボッカが荷をしょい、松本方面へ南行する時、土地の人たちはどんな場合にも道を譲り、北行するボッカはどんな重荷を負っていても、土地の人には道を譲ったという。・・」*26
歩荷と地元の人がお互いに思いやり譲り合っていたのです。
それにしても、歩荷さんは夜道も歩いていたわけで、山犬や野盗に遭うなど危険なことも多かったことでしょう。
峠を下りると大糸線の線路と並走するようになります。
群生するカタクリの花。
18 白馬さのさかスキー場*27
千国街道はスキー場のゲレンデへ出ます。
スキー場の土手に咲くノジスミレ(?)
19 蚕影社
スキー場から国道148号の方へ100ⅿほど下ったところに蚕影社(こかげしゃ)があります。
「養蚕の神様として農民から信仰された。この地は明治時代、養蚕が盛んであった。」*28
ここにもアスマイチゲ(?)
スキー場の駐車場近くの桜
フクジュソウの花も咲いていました。カタクリも。
桜の花びらが雪のように積もった屋根
桜の向こうの山に残雪が見えます。
国道へ出るところに白馬さのさか観光協会*29があります。
20 十二社*30
観光協会の前の国道148号を大町方面(南)へ200ⅿほど。
「民間信仰の象徴的な出来栄えが素晴らしい石仏がひしめく。」*31
像の下に「蚕神」と記されていますが、「姿は仏教の馬鳴(めみょう)菩薩」*32とのこと。
「馬鳴(めみょう、梵: Aśvaghoṣa, アシュヴァゴーシャ、後80年頃~150年頃)は、古代インドの仏教僧侶」*33
馬に跨った武士らしき姿の神様もおわします。
こちらは「万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の5種類の元素からなる」という五行思想*34の神様を祀っているようです。
21 姫川源流入口
国道を白馬さのさか観光協会前まで戻ると、姫川源流・親海(およみ)湿原への入り口があります。
「§14 後編(姫川源流⇒神城)」へ続く
*1:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*4:桜開花情報 2024(4/26最新) | 大町市観光協会 (kanko-omachi.gr.jp)
*6:あづみ野児童文学会編(1998).あづみ野・大町の民話 発売元塩原書店
*13:コミュニティビジネス紹介 / 青木湖漁業協同組合 | 大町市役所 | 産業立地戦略室 (city.omachi.nagano.jp)
*15:はまみつを編著(2006).信州の民話伝説集成【中信編】 一草舎出版
*16:大町民話の里づくり もんぺの会制作発行 相澤亮平編著(2019)。改訂新版 語り継ぐ大町の伝説<全384話> 有限会社 塩原書店
*17:大町市史編纂委員会(1985).大町市史 第二巻 原始・古代・中世「第1章 古代の官道『三坂峠道』と阿部氏」 大町市
*18:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*19:千国街道西国三十三番観音石仏 - Google マップ
*20:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*21:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*23:あづみ野児童文学会編(1995).白馬の民話 信濃教育会出版部
*24:大町民話の里づくり もんぺの会制作発行 相澤亮平編著(2019)。改訂新版 語り継ぐ大町の伝説<全384話> 有限会社 塩原書店
*26:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*28:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*31:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*32:大北神社誌編纂委員会編(1992).大北地方の神社と文化 長野県神社庁大北支部他