コース「大網峠越え」前編
・平岩駅前⇒大網諏訪神社:50分(2.6㎞)*1(通行止めがないとき)
このコースは、現在、「牧坂」道標から「荷換え峰」道標までが災害のため通行止めとなっています。そこで、以下の計画で歩ける部分は歩いてみたいと思います。
①平岩から牧坂道標まで往復する。
(②今日は時間の余裕があるので、平岩の集落内を歩く)
③迂回路の村道(車道)を車で平岩から大網へ移動する。
④大網から荷換え峰道標まで往復する。
⑤村道から林道を利用して、通行止め区間の途中にある「大網口」道標まで往復する。
牧坂、荷換えの峰、大網口、三つの道標が目的地です。
1 やまや*2
朝7時頃、道の駅小谷*3を通りかかったら、敷地内にある「やまや」さんが営業していました。営業は土・日曜日のみ、早朝からです。(『千国街道 §23 石坂越え 後編 44やまや』参照)
右のプレハブがやまやさん。この時期、天然のきのこ蕎麦が期待です。まだお他に客さんはいなくて、カウンターの向こうでオヤジさんがきのこを切っていました。
「何のきのこか分かる?」
「マイタケ!すごいね!」
「この時期になるとなくなるんだけど、昨日はたまたまあったんだよ。もっとあるけど、見るかい?」
お店の裏に見事なマイタケの大株!
「マイタケは注文があってから天ぷらにする。ちょっと時間かかるけど、食べるかい?」
「マイタケもきのこ蕎麦も、両方食べたいな。」
「じゃあ、ハーフ&ハーフにしてやるよ。」
マイタケの天ぷらと天然きのこのお蕎麦。よい香りのマイタケ。アミタケ、ブナハリタケ、ムキタケ、ナラタケ、シメジの類…、一種類ずつ確かめながら味わいました。これぞ本物の天然きのこ蕎麦!最高!!
しかも、これで850円とはびっくりするほど良心価格!
「ごちそうさま」
「満足したかい?」
「大満足。でも帰りにまた食べたいな。」
「もうないよ。」
「ははは」「ははは」
お腹も心も大満足でした。
『今日は幸先いいな。きっとよいことあるぞ。』と気分よく平岩駅へ向かいます。(歩き終えて振り返ってみるとその通りの一日になりました。)
2 平岩駅前*4
駅前に車を置き、大網大橋跡へ向かいます。この区間は前回の『千国街道§ 24 天神道越え 後編』で歩きましたので、以下に再掲します。
3 大網大橋跡①(再掲)
ホテル国富*5さんの玄関前から姫川の対岸を見ると、かつての大網橋の橋脚台となった黒い巨石が見えます。
左はデンカ横川第ニ発電所*6。その上に大きな崩落が見えます。この崩落で、平岩・大網間のうち、道標「牧坂」・「荷換の峰」間は現在通行止めです。
橋桁の穴が見えます。現在の大網橋を渡って見に行きます。
4 大網橋(再掲)
こちらは現在の大網橋。海抜280ⅿ。平岩駅と平岩いで湯の広場の中間にあり、どちらへも450ⅿほどです。
「葛葉」の名前が残っている踏切
「おあみ」ではなく「おおあみ」。
橋の上から上流方向に目を向ける葛葉峠が見えます。
橋を渡り、林道を登っていきます。
大網橋から200ⅿほどで、デンカ横川第二発電所*7の前を通ります。
5 大網大橋跡②
発電所を過ぎるとすぐに道標があります。
道標の後ろを姫川の方へ下りますが、道はなかなかのヤブです。
セイタカアワダチソウとススキがせめぎ合っている中に割り込んでいきます。大人の肩近くの高さがあります。
巨岩の頭が見えました。
「姫川に大網橋が架けられたことが、千国古道(地蔵峠)から大網峠の道へと主ルートが変遷した理由のひとつ。」*8
「…発電所の南に橋脚台となった巨石がある。橋桁の穴12か所が残されている。天保4年(1647)の『信濃国絵図』によれば長さ18間(約32m)深さ約30間(約54ⅿ)とあり、大町以北最大の橋であった。
大網橋の架橋工事は松本藩・糸魚川藩の総力によるものであった。増水でたびたび流されるので仮橋であることも多く、その時の話に『大野の牛方が牛2疋とやってきて、仮橋を渡るので一疋を橋の袂に繋ぎ、一疋を引き連れて渡った。ところが繋いだ筈の牛が後を追っかけてきて、その重みで仮橋が崩れ、牛方もろとも激流に落ち流された。』という悲話がある。
現在、下流の防災ダムなどにより河床が上がり、さほど深くない。」*9
橋桁の穴です。ここに柱を立てて橋脚を作ったのですね。
「橋を支える大岩。対岸にはないので、大きな籠に石や砂を詰めて沈めた。お互いに腕を坂のように出して、上に32ⅿの巨木を載せた。幅は最低1ⅿくらいはあるはず。諏訪の御柱が15~16ⅿだからその倍の1本が必要だった。それを越後の大所の山から引き出してきて架けるのは大変な仕事だった。災害や地震などで橋桁が崩れて落ちた。難所だった。
松本・糸魚川間の大きな有名な三つの橋(熊倉、宮本、大網)の一つ。ここが大事な追分的な場所。橋を渡って大網峠を越えて根知の山口へ行く道と、橋を渡らずに須沢へ行く道があった。橋が落ちると使い分けた。」*10
「三大橋の中で最大だった。…橋から下の谷まで60ⅿあった。今はこんなに河床が上がっちゃって穏やかな水の流れだが。
災害や地震で橋が落ちる。そのたびに松本藩では『早く橋を直せ』と御触れ書き。でも村の人は春先は田んぼ畑の仕事をしなきゃならない。『もうちょっと待ってくれ』という返答も出している。橋が落ちたときは三坂峠とか地蔵峠とか、他の道を使った。何とかして塩を松本へ運んだ。」*11
この場所に橋が架けられたのはこの大岩があったからなのですね。あと、大所川が合流する前で、水量が少し少なかったからだとも思います。
林道へ戻り、上って行きます。
6 「牧坂」道標
広場のような場所に出ます。
左は上ってきた道。右の道を上りたいのですが、「牧坂」道標の前で通行止めです。ブナの大木があり、この先も気持ちよさそうな道なのですが…。残念。
「牧坂」の道標
来た道を戻って平岩駅前へ戻ります。
駅に向かって左、大所川に沿って道を下ると、すぐに小谷村営バス「平岩駅前」のバス停*12があります。
このバスに乗ると大網宿へ行けます。(土・日・祝運休)
7 姫川湯橋
大所川を渡る大糸線の下をくぐります。写真左は姫川に架かる「姫川湯橋」。
なんとも風流な名前です。
姫川湯橋から見た上流側です。
8 大糸線 第7姫川橋梁*13
ちょうど大糸線の鉄橋をディーゼル車が渡っていました。
車両の全長は「日本の鉄道車両では一般的には20mが多い」*14そうです。写真の車両の長さから橋梁の高さを推し量ると、およそ30ⅿくらいでしょうか。オフィスビルだと7・8階、マンションだと10階建てくらいです。高いです。
太平洋戦争の後、なんと地元の人たちがこの鉄橋を歩いて渡っていた時期があったそうです。
「戦争中に金物が取り上げられて、平岩の駅まで線路が敷かれていたのに、大糸線は小滝平岩間は枕木だけで、私らはその上を歩いた。ショボケ(先のほうをワラで覆ったワラジ)は滑らないというが、ワラの目に雪をつめると一番滑る。横滑りしまいとがんばると、向こうへつるっといってしまう。
姫川の鉄橋の上を歩くときがいつもどきどきした。一歩足を滑らすと、枕木と枕木の間にすとんとぶらさがる。荷物があるからぶらさがるので、荷がなければ即死。下は発電所がないから流れはゴーゴーいって逆まいて、それを見るとぶるぶるふるえる。ここは歩いてはいけないのだから、落っこちて死んでもどこからもお金はこない。大峰峠を越えるよりは1里も近かったからこっちを歩いた。
元気な人は、トットッと歩いていくからつるっと滑ってストンと落ちる。二度もぶらさがった人がいた、それをみたら肝を冷やした。(平岩、佐々木ウメノさん、大正10年生まれ)」*15
なぜ、国道を使わなかったのかというと、国道は冬期は不通になっていたのです。
「(国道148号は)1885年(明治18年)5月に着工。…1892年(明治25年)…全工事が完了した。しかし、厳しい地形を縫うこの道は、風雨のたびに落石が相次ぎ、冬季は雪崩が谷を埋め尽くしてしまうことから、12月から4月までの間はいっさいの交通が途絶えた。
戦後の1953年(昭和28年)5月18日に、このルートが二級国道148号に指定され、日本の高度経済成長とともに自動車交通の激増により改良事業が推進されていき、姫川に架かるつり橋の架け換え事業や交通難所のトンネルの建設、道路舗装工事、大規模なバイパス道路の開通が行われてきた。…
国道の本格的な除雪は昭和30年代後半から始まったが、道幅も狭く除雪機の数が少なかったため大雪などの時は対応困難であったが、1965年(昭和40年)から国や長野県からの補助を受けて除雪車の導入を図り、国道の主要部分の除雪が可能となった。…
1961年(昭和36年)よりスノーシェッドの整備が着手された。…1980年(昭和55年)に全線の完全除雪を達成した。だが、翌1981年(昭和56年)は豪雪により、70日あまりの通行止めを余儀なくされることとなる。
以後、防雪施設の整備がさらに推進され、冬季通行止め日数は年々減少し、1986年(昭和61年)以降は、小規模の雪崩の発生はあるものの冬季通行止めは1日もなくなった。」*16
豪雪との闘いの歴史ですね。塩の道も同じように古代から雪と闘って道をつないできたのだと思います。
佐々木ウメノさんのお話にある「大峰峠」は西廻りの道にあります。油売り(筆者)は、明治20年代に国道ができたことにより、西廻りの道も含めて塩の道は役割を終えたと思っていたのですが、実はそうでもなかったようです。
少なくとも終戦後の時期まで、地元の人たちにとっては、国道が通行止めとなる冬期の重要な交通路だったと思います。
そして、列車の走らない線路は、近道としてまさに命がけで使われていたのです。
大網峠越えは千国街道最大の難所だと言われます。でも、大網橋跡を見たり、冬の鉄橋を歩いて落ちる話を読むと、本当の難所は姫川を渡るところではないか、と油売り(筆者)は思うのです。
9 大所川
姫川へ流れ込む大所川です。左は姫川を渡る姫川湯橋。大所川を渡るのは、手前から大糸線の鉄橋(中)、大所橋(下)、国道148号の新大所橋(上)*17
「(平岩は)大所川と姫川が合流する所。昔は集落が無かった。」*18
大所川も砂防堰堤が続く暴れ川です。
昔の大網橋の大木はこの川の上流で切り出され、運ばれてきました。
そういえば、平岩駅前には「木地屋の里」の案内板がありました。大所川流域から木を伐り出し、漆器を製作・販売していた人々の里です。だいぶ以前に見学したことがあるのですが、大木を切る鋸、大木を運ぶ橇(そり)などがありました。
その頃は、まだ塩の道を歩くことは考えていなかったので写真もありません。西廻りの道を歩くようになったら再度見学してみます。
10 平岩集落
今日は時間の余裕がありますので、姫川湯橋から姫川右岸の道を歩き、大網発電所の吊り橋*19まで行ってみたいと思います。帰りは吊り橋で姫川を渡り、左岸の道を平岩駅前へ戻ります。一周約1.5㎞のお散歩です。
「姫川温泉 瘡の湯」 *20と「ラーメン屋」*21
姫川湯橋から200ⅿ弱。
「姫川温泉 瘡の湯」と「ラーメン屋」という名前のラーメン屋さんが並んでいます。このラーメン屋さんは、前回、天神道越えを歩いたとき、最後に感動したお店です。何に感動したのか、詳細は『千国街道§ 24 天神道越え 後編』をご覧ください。
それにしても、こうして並んでいる姿を拝見すると、いつの日か瘡の湯へ入ってラーメンを食べたいと改めて思います。
温泉の滝*22
ラーメン屋さんから北へ50~60ⅿ。大岩の上から温泉が流れ落ちています。強い温泉の匂いがします。姫川温泉の源泉でしょうか。
大岩の横の階段を上ると、公園のようになっていて足湯や姫岩薬師堂があります。
足湯*23
足湯と書きましたが「温泉池」が正しい名前のようです。立札には「この場所での入浴はできません」と書いてありますから、誤って入浴する人もいるみたいです。
姫岩薬師堂*24
姫岩薬師堂へ上る階段の途中におわす仏様。
大岩(姫岩?)の上に姫岩薬師堂があります。昔からのものではなさそうです。
薬師堂の前の直方体?から温泉が下の滝へと流れ出ています。
北アルプスと日本海出会いの湯
足湯に隣接する姫川駐車場*25にある案内板です。このエリアにはたくさんの温泉があります。湯巡りも楽しそうです。
地蔵鉱山
足湯の道路向かい側に地蔵鉱山の事務所がありました。たまたま気が付いて写真を撮ったのですが、この日、大網で関連施設に出会うことになりました。
なお、地蔵鉱山*26は、大網から千国古道へ上ったところ、長者平の近くにあります。
7.11水害
足湯隣の駐車場から坂道を下っていくと、案内表示などの見当たらない大きな祠がありました。何でしょうか?
祠の下に「復興記念碑」がありました。7.11水害からの復興を記念して設置されたものです。祠も関連施設のようです。
蒲原にあった案内板に災害の記事がありました。水害時の姫川の流れはものすごいですね。
「前年の1995年夏、後に7.11水害と呼ばれる集中豪雨災害が発生した。特に姫川水系上流部の被害が激しく、氾濫により姫川に沿って通っていた道路や線路上を流れる濁流がスノーシェッドを転覆させ、多くの箇所で道路や線路の法面が崩壊した。交通手段を失った新潟県糸魚川市平岩地区では500人以上がヘリコプターで救出される事態となった。」*27
恐るべき水害だったことが分かります。大糸線の復旧には2年4か月もかかっています。
大網発電所の吊り橋*28
発電所の吊り橋ですが通行可です。吊り橋と善鬼巌の景色は旅の風情を感じさせてくれます。
国道「平岩」信号前*29
吊橋から200ⅿほど歩き、国道148号との合流点へ行ってみます。
ここは見晴らしがよい場所です。デンカ大網発電所の全景が見えます。
「1921年12月 青海工場*30を新設(新潟県・カーバイド)
カーバイド生産を本格化するために、新潟県糸魚川において青梅工場の新設を決定。黒姫山で産出(埋蔵量の推定500億トン)する石灰石を活用し、カーバイドの生産を行うことが目的であった。…
青海工場の稼働とともに、デンカは水力を中心とした発電所を自社で新設。これにより、青海工場において、発電および石灰石の採掘から肥料生産までの一環生産体制を樹立した。」*31
この発電所で発電した電気は青海のカーバイド工場へ送られるのです。電力の道ですね。
そういえば、城の越を過ぎたあたりから見え始めた明星山も石灰岩の山でした。(詳細は『千国街道§24 天神道越え 前編』参照)
平岩の集落がよく見えます。橋は手前から、大網発電所の吊り橋、大糸線第7姫川橋梁、姫川湯橋です。
ふれあいの宿
鉢花で埋め尽くされたお宿です。
ウェストンの宿*32
吊橋から平岩駅方向へ40ⅿほど。
上高地のウエストン祭の他に、親不知でも「海のウエストン祭」が行われているとのこと、初めて知りました。ウェストンが歩いたあとには、いろいろなつながりが生まれたのですね。
平岩駅前
再び車を置いてある平岩駅前へ戻りました。次は車で大網宿へと村道を上ります。
11 「大網」バス停
平岩駅前から2.4kmほど。小谷村営バスの大網バス停に着きました。
バス停の横の建物には大きな案内板。大網峠越えのコース図です。
バス停の前は、バスがUターンするのか広い駐車スペースになっています。
大網の集落、大網峠方面、雨飾山が一望できます。とうとう大網まで来たな~という気持ちになります。
雨飾山がきれいに見えます。
「日本海を航行する船の目印となっていた山。直線で約45kmは離れた白馬からも大きく見える。こんもりした山に見えるが、近くに寄れば山頂は鋭く尖り、見る位置によっては双耳峯(そうじほう)になっている。
山頂に『善光寺三尊像』他を祀る。風鎮めの山・修験の山など畏敬の念で崇められた霊山。『日本百名山』の一つ。」*33
主に地蔵峠越え(千国古道)について書いてあります。千国街道の次は古道を歩きたいです。
大網にはギフチョウ・ヒメギフチョウが生息しています。
12 「大網」道標・高札場跡
大網バス停から150ⅿほど。集落の四つ角に建っています。後ろに見えるのは千国諏訪神社。高札場跡の表示は見当たりませんでした。
「信越国境の地であったため、歴史上、軍事・交通の要所であった。牛方宿、ボッカ宿、そして塩の中継地として継荷宿があり栄えた。塩を貯蔵するための『塩倉』も幾棟かあった。当時の塩倉は沓掛牛方宿へ移築されて、今は大網にはない。」*34
「荷継場として賑わい、千国番所の支所も置かれていた。」*35
道標の左面には『大網 右 葛葉峠 左 大網峠』、右面には『横川谷越え 右 長者平 左 平岩』と記されています。この場所は、千国街道(左面)と、千国古道へ向かう道(右面)の分岐点です。こういう道標は初めて見ました。
「仁科氏は大網に移住する者に対し、3年間の諸役を免除する令を天正5年(1577)に出し、信州の北端の守りを固めた。この集落の出現で主要道であった『三坂峠越え』(深原~大峠~横川~粟峠~山口)が、『大網峠越え』(来馬~葛葉峠~大網~大網峠~山口)に移っていったと考えられる。
白池の『諏訪の平』まで1里25町35間の距離。大網の人は峠道を『大網街道』とも言う。」
「三坂峠越え」(深原…山口)は千国古道の鳥越峠越え・地蔵峠越えのコースです。
13 消火栓の道
さて、千国街道を「荷換え峰」道標まで歩きたいと思います。諏訪神社と大ケヤキの西側、写真右の道へ入っていけばよさそうですが、これまでのような丁寧な案内表示が見当たりません。
ちょうど、大網支所(中央の白い建物)から数人の仲のよさそうなお婆さんたちが出てきました。今日は衆議院選挙の日です。(油売り=筆者は期日前に投票済み)
「こんにちは。荷換えの峰へ行きたいのですが。」
「この人の後、ついてけばいいわ。〇〇さん、あんたの家の方だよ。一緒に行ってあげ。」
しっかり世話を焼いてもらいました。
分かれ道は消火栓の表示のある方へ進みます。案内表示はないのですが、お婆さんに教えてもらって迷わずに済みました。感謝です。
お婆さんの話では、この千国街道の下に消火栓の水路が通っているのだそうです。
集落の外れが近づきました。中央左に小さく白い立札が見えます。
ここから山道に入ります。
立札は通行止めのお知らせでした。『牧坂~荷換之峰区間は通行不不可』とのこと。
一部拡大図です。
・大網橋跡道標(平岩)から①牧坂道標までは歩きました。
・大網道標(諏訪神社前)から②荷換之峰道標まではもう少しです。
・大網バス停から村道(車道)を平岩方向へ下ったところにある林道(油売り=筆者が赤く色づけ)を入って行くと、③大網口道標まで行けそうです。通行不可ではありません。
この後、荷換之峰まで行ったら、次は大網口道標を見に行きたいと思います。
14 庚申塔
山道に入るとすぐ、ブナの大木の下に庚申塔があります。形がいいな~と思います。しっかりと石垣が積まれていて、村の人々から大事にされてきたことが伺えます。
15 地蔵鉱山プール
お婆さんが「すぐだよ」と教えてくれたとおり、すぐにプールがありました。
この池は「今は消火栓の防火用水だけど、昔は地蔵鉱山の石を洗っていた」(お婆さん)とのこと。
地蔵鉱山は、平岩の集落を歩いていた時、事務所の建物を目にしました。(『10平岩集落』参照)
「地蔵鉱山は、1931年(昭和6年)に開鉱された長野県北安曇郡小谷村にある金鉱山である。 金鉱石品位は約30 g/t と高水準で、金埋蔵量は 約50 tと推定される。
採掘様式は露天掘りで、雪のなくなる6月から11月の間(半年間)のみ採掘される。」*36
このプールではどのような作業が行われていたのでしょうか。
「山から採掘した鉱石に含まれている金を採取するためには、これを粉砕して汰り分け(ゆりわけ)なければならない。微粉化された鉱石は水を使って比重選鉱を行い金と鉱石の滓(おり)とに汰り分ける。
比重選鉱とは、比重の重い金を微粉化された鉱石から産出するときに、比重の軽い鉱石の滓だけを水とともに流し出して取り除く方法」*37
詳しいことは分かりませんが、ここで水を利用した比重選鉱が行われていたと思われます。
また、ここは地名に「峰」の付く場所であり、地蔵鉱山から索道を使って鉱石を宙づりにして運ぶには、障害物が少なくて都合がよかったのかもしれません。
お婆さんおかげで面白いものを見せてもらいました。
16 「荷換え峰」道標
プールの左の道沿いに道標があります。
「『荷換』(にかい)継荷宿があったことに由来する。」*38
「越後から塩が来ると、荷を信州の牛に積み替える。そういう約束があった場所。むこうは越後、こっちは信州。むこうは越後の牛、こっちは信州の牛。」*39
ここから下には田んぼもあったそうです*40。広くて平らな土地があるようですので、通行止めが解除されたら歩いてみたいものです。
17 「大網口」道標への道
「大網」バス停
大網バス停へ戻り、村道(車道)を平岩方向へ下ります。
保護活動が行われています。
横川で渓流釣りもできるようです。
大網バス停から約600ⅿ、林道の入口(左)です。
このあたりは杉の美林です。大網は林業でも栄えた場所だったのでしょう。
林道沿いには電線も通っています。
豪雪の重みで根元の曲がった木々。
18 「大網口」道標
林道入口から約850ⅿ。「大網口」道標に着きました。これで、今日の目的である三本の道標(牧坂、荷換之峰、大網口)まで歩くことができました。
道標の左が荷換之峰から下って来る道です。ここから牧坂までの間には「さんどぐり」「かんかけ」という興味深い地名があります*41。
この道がこのまま廃道とならず、いつの日か歩けることを願うばかりです。
来た道を戻ります。
19 大網諏訪神社
大網道標の前、大網宿の中心にあります。
「大網は『おあみ』と呼称されているが、『うあみ』『おおあみ』とも。いずれも古代の峠の神の遥拝所である『拝み』に由来するともいわれる。
大網(古宮)諏訪神社は建御名方命の生誕地であるとの伝承があり、奴奈川姫がこの地に産屋を建て、周囲に大きな網を張り巡らしたので『大網』と呼ぶようになったともいわれる。」*42
「時代により季節により、さまざまな品物が運ばれていった。継立問屋のあった大網に住む武田ふさのさん(明治30年生まれ)は、こんなことを語ってくれた。
『ボッカの運んでくる荷によって、村人たちは季節感を味わいました。春先にはナガシ(イワシの一種)という魚が運ばれてくる。ひと塩のしてあるこの魚は、ジロ(地炉・囲炉裏端のこと)のおきにワタシをのせ、ジブジブ、ジブジブ焼いて食べた。ナガシは春を告げる魚だった。
5月、6月になると、干鱈がやってくる。そしてニシンがくる。ニシンは、お盆や夏祭りに作るコブ巻きに欠かせない魚だった。
秋にはしょっぱいシオマス(塩鱒)がやってくる。雪が降りだすころには、正月用のブリなどの魚が運ばれてきた。
昔は大網に、丸イチという問屋があって、ここで荷の中継が行われた。ボッカはここで待っていて、運ぶ荷のクジを引いたといいます。
カマスに入った塩が運ばれてくるのは、春の味噌作りの頃と、秋の漬物作りのころでした。その頃になると、頑丈な人を先頭に、三十人から五十人ものボッカが列を作って、休み棒(荷杖)というものを荷の下にあてがい、肩をゆるめて休憩していて、大網はこんな山の中なのに、ヘンな所だったネ…)』*43
四季折々に運ばれて来る魚を味わい楽しめるとは、とても山国信州とは思えません。大網は海に近く、経済的にも豊かなところだったのです。
境内には大網宿を見下ろすような大ケヤキがあります。
「武田八万人さん(明治25年12月生まれ)何しろ大網はボッカで銭取りをしていたところだから、朝晩は賑やかで数も相当だったらしい。塩だけでも1万6千俵あったなんて書き付けを見たことがある。木綿荷だとかタバコ荷だとかいうものも年寄りからよく聞いたね。これは下り荷だろう。魚は越後ばかりじゃなく越中からも来たようだね。塩も遠いところから来たらしい。」*44
今日の道歩きはここで終わります。次は日を改めて大網道標から大網峠越えを歩きます。中編で紹介したいと思います。
帰路、道の駅小谷*45へ立ち寄りました。
20 塩の道御膳
まず、少し遅い昼食です。「鬼の厨」*46へ行ったら、前回は品切れだった(千国街道 §23 石坂越え 後編』)「数量限定 塩の道御膳」(税込1,900円)にありつくことができました。
「小谷と信州の食材をふんだんに召し上がっていただけます。」というだけあって、道歩きの昼食にしては豪華ですが、塩の道と名前がつけば食べざるを得ません。商売上手ですね。
では、写真の上の方から…。
・豚の角煮:小谷産の野豚。
・お蕎麦:葉わさびが載っています。安曇野産かな?
・きな粉プリン:前回、お土産で購入しました。(『千国街道 §23 石坂越え 後編』の末尾『今日のお土産』参照)
・野沢菜漬け:お代わりできます。
・天ぷら:今が収穫期のリンゴ、ナスなど。
・ご飯:「小谷産こしひかり。昔ながらの羽釜を使い直火で炊き上げた自慢のご飯です。」というだけあって、粒だっています。(おかわりできます)
・長いものとろろ:ゆかりが掛けてあります。
・生ハム:小谷で作ったもの。
・信州サーモンのお刺身とたたき、信濃ゆきますの炙り、大岩魚のレモンソース掛け。
テーブルの上にあった小谷醤油をつけて食べました。味、旨味が濃いです。
以上、目移りしながらとても美味しくいただきました。
あと、まったくの個人的な感想ですが、塩の道と名乗るのだから、塩の道を牛の背で揺られて運ばれてきた「塩丸イカ」と、新潟県や長野県北部で食べられている「エゴ」が入っていればなおよかったと思います。
「(エゴは)古くから伝わる伝統食品で、乾燥したいご草(エゴノリ)を煮溶かし、よく練ったものを冷やして固めて作られる。」*47
長年、長野県では新潟県からいご草を運んできて食べていたのです。
この先、塩の道歩きのどこかで出会えたら紹介したいと思います。
ところで、この道の駅では売店で地酒の試飲もやっています。深山の湯へ入って、試飲してお酒を選び、塩の道御膳で飲めたら最高だろうと思います。いつの日か実現させたいです。
今日のお土産
熟成チーズのチーズケーキ 1,080円(税込)
道の駅小谷で購入しました。塩の道御膳と同じで、前回は品切れでしたが今日はラッキーでした。
千国の白馬乗鞍温泉スキー場近くのペンション「ホビー白馬乗鞍」*48で作っています。牛を飼っていて、自家製の乳製品の食事や動物とのふれあいもできるそうです。*49
ケーキナイフを大小2本持っている人の感想です。
「ふう~ん、味が濃くて美味しい。焼いてあって香ばしい。しっかり作ってあるわ。ツルツルしたチーズケーキとは違う。」
ケーキナイフも使えて満足そうでした。
今夜のお酒
前回は「残念!」が4回もあり、最後のお酒で欲求不満を穴埋めしようと思い、奮発して「栂の森(大信州酒造)720ml 1,900円(税込)」を買いました。
今回は「ラッキー!」が4回もありました。①やまやさんのきのこ蕎麦、②大網で道案内してくれた親切なお婆さん、③塩の道御膳あり、④チーズケーキあり。
これはもう感謝の気持ちを表すためにも、奮発して美味しいお酒を選ばなければなりません。
雨飾山(北安醸造) 500ml 1,900円(税込)
機械栓。小谷杜氏、粉雪仕込み、純米吟醸、無濾過生原酒、小谷村棚田米使用。もうもう間違いなく美味しいに決まっているお酒です。
辛口で、始めはスッキリしているのですが、後から旨味がジワッと広がってくる感じがします。「スッキリ」は小谷の清らかな沢の水、「旨味がジワッ」は雨飾山*50のどっしりとした山容を連想させます。
もう50年も前になりますが、学生時代にこの山へ登りました。ガスっていて、ほとんど何も見えませんでしたが、高山植物の花が咲いていたのは覚えています。
小谷温泉付近まで下山してテントを張り、山田温泉旅館*51の熱いお湯に浸かって体を温め、銭湯とは違うな~と感動しました。先輩がテントの周りで野草を採り、「これ、食べられるよ、多分…」と言うので、半信半疑で茹で、調味料なしで食べました。コゴミを食べたのはその時が初めてです。
懐かしい思い出に浸りながら飲む「雨飾山」は、体中に沁みわたる味でした。こうして今日も大満足の道歩きでした。
千国街道§ 27 平岩⇒山口/大網峠越え 中編 へ続く
*1:小谷村観光協会(2022).千国街道 塩の道を歩く
*8:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*9:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*10:【千国街道塩の道】天神道越えコース(歴史観光・トレッキングコース)
*11:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース)
*15:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*18:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*32:Lodge for Walter Weston - Google マップ
*33:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*34:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*35:小谷村観光協会(2022).千国街道 塩の道を歩く
*37:金山での作業 粉成|甲斐黄金村・湯之奥金山博物館|山梨県身延町
*38:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*39:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*40:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*41:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*42:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*43:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*44:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局