道は未知 / 大糸線利用で歩く塩の道

千国街道、千国古道、西廻り、塩尻へ

          2024.4.25 中綱湖

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千国街道 §20 南小谷⇒池原(南小谷⇒北小谷/石坂越え/前編)

2024(令和6)年9月24日(火)
コース

・南小谷駅⇒池原道標(中土駅付近):1時間50分(4.7㎞)*1

 

自宅のある安曇野市は9月20日まで30℃越えの毎日。でも、今日(9月24日)の小谷村は最高気温23℃の予報です。やっと道歩きができます。

早朝、JR北小谷駅前に車を置き、列車(ディーゼル)で南小谷駅へ。道標「雨中」(小谷村郷土館前)から北小谷駅まで「石坂越えコース」を歩きます。

1 JR北小谷駅*2

「大糸線では長野県最北の駅。1957年(昭和32年)8月15日:国鉄大糸線の中土駅 - 小滝駅間が開通し、開業。」*3

小さな駅舎ですが、駐車場は広いので車を置きやすいです。

駅舎横の観光案内図。塩の道の各コースも示されています。

駅舎内に掲示された「大糸線増便バス」の案内。利用者が増えるといいですね。

私も気持ちだけでも応援したいと思っています。

ホームにある名所案内。いつか歩きたい地蔵峠越えコース(千国古道)が記されていて、テンションが上がります。

一本だけのホーム。「糸魚川方面行」と「南小谷方面行」の乗車口(青い案内表示)が並んでいます。

架線がないので違和感を思えますが、慣れるとすっきりしていて、空が広く感じて、よいものです。電柱や電線がない街と同じです。

午前7:05発、南小谷行の列車が入ってきました。

デザインの印象か、パンタグラフや架線がないためか、1両編成のためか、何となく可愛く感じられます。

ディーゼルカーに乗るのは思い出せないほど久しぶりです。車内には独特のエンジン音が響き、電車にはない振動が感じられます。

保育園児の孫が乗ったら喜びそうです。

 

「六角精児の飲み鉄本線・日本旅」というテレビ番組を見ていると、『ディーゼル』という曲がよくかかりますが、その歌詞を思い出します。

 走る列車のリズムに合わせ

 缶ビールがゆれている

    … … …

 ディーゼルの音を聴きながら

 ホームに降りて背伸びをすれば

 あ~少し気が晴れる

 

今回は車も運転しますのでできませんが、いつかディーゼル車の中で缶ビールを飲みたいものです。

2 南小谷駅*4

午前7:20着

大糸線は、松本駅から南小谷駅までは電化されていますが、南小谷駅から糸魚川駅までは非電化でディーゼル車が走っています。

ちょうど、ホームの向こう側には電車、こちら側には乗ってきたディーゼル車が停まっていました。

塩の道に例えるならば、速度が速く平地向きの電車は馬。ゆっくりだけど山道に強いディーゼル車は牛。塩の道も北部は牛が活躍していました。

上の写真は牛と馬が並んでいるかのようです。

ホーム側から駅舎への入り口付近です。花の咲いた高山植物に囲まれた栂池自然園(?)の風景。

駅舎に入ると、「南小谷れんげ」と「糸魚川せつか」のキャラクター。

ガシャポン(大糸線南小谷ー糸魚川のアクリルスタンド)は売り切れ。残念!

 

南小谷駅前

村営バスの「雨飾高原行」が停まっています。

南小谷駅の歴史は以下のとおりです。*5

・1935年(昭和10年)11月29日:国有鉄道大糸南線の信濃森上駅 - 中土駅間開通に伴い一般駅として開業。

・1939年(昭和14年)4月21日:午前9時17分姫川右岸風張山が崩壊により当駅 - 信濃森上駅間が不通となる。8月7日:当駅を含む信濃森上駅 - 中土駅間の一般運輸営業を停止。宅扱貨物及び小口扱貨物による生活必需品の運送を同年11月30日まで自動車で代行
・1940年(昭和15年)1月19日:同日より再び生活必需品の冬季代行運送を馬橇にて実施する。11月1日:信濃森上駅 - 当駅間が開通し、信濃森上駅 - 中土駅において一般運輸営業を再開する。
・1945年(昭和20年)7月15日:水害により信濃森上駅 - 中土駅間が被災。当駅以南が18日間、以北が20日間不通となる。
・1952年(昭和27年)7月1日:当駅 - 中土駅間において築堤が崩壊し、3か月間不通となる。

・JR東日本が管轄する電化区間と、JR西日本が管轄する非電化区間との境界駅であり、在来線では唯一のJR東日本とJR西日本との境界駅である。JR東日本長野支社が構内施設を保有し、駅業務等を担当している。

 

これを読むと、自然災害によりたびたび大きな被害を受けながらも、鉄路を守り通してきたことがよく分かります。

現在でも大雪や大雨で運休になることがよくあります。

それにしても、少なくとも昭和15年まで馬橇が使われていたとは…。アラコキの油売り(筆者)の子ども時代とさほど遠くない時代です。

3 「雨中」道標

南小谷駅から約0.4㎞

左の土蔵造りの建物がお蕎麦の美味しいおたり名産館*6。右の茅葺屋根の建物が小谷村郷土館*7です。

写真右端の樹木の下に庚申塔と「雨中」(うちゅう)の道標があります。ここは海抜505ⅿとのこと。

この日は交通安全立哨(りっしょう)活動が行われていました。集落の中の狭い国道を大型車が走り抜けるので、かなり危ない状況です。

現在工事中のバイパス・トンネルが完成すれば安全で静かになりますね。時代とともに道は変化していきます。

 

道標「雨中」から国道を80ⅿほど進むと千国街道は左(西)の山側へ入っていきます。

道標「北雨中」あたりから山道となります。

 

上り坂の脇に石造りの行燈が置かれていました。昔の街灯でしょうか。

 

丸太を並べた階段との分かれ道に庚申塔がありました。

庚申塔の脇には小さな石仏も祀られています。

 

標柱「石番場」と大岩の上の庚申塔

 

道は草むらを踏み分けながら進みます。草むらは夜露に濡れていて、ランニングシューズの中まで水がしみ込んできました。防水性のあるトレッキングシューズにすればよかったと思います。ランニングシューズの方が歩きやすいのですが…。

 

転落防止のトラロープを張った道が続きます。

民家の向こうには、姫川対岸の山の中腹にある山里が遠くに小さく見えます。

4 和平の分去れ

「分去れ(わかされ)」と読む道標。

「分(か)去(れ)」とは、「《群馬から長野にかけての方言》道が左右に分かれるところ。分かれ道。追分。」*8とのこと。

北側から振り返って分去れを撮影しました。

 

今日は写真右の道(千国街道、姫川左岸)を歩いてきました。左へ進めば大峰峠越えコース(千国古道)で、宮本橋で姫川を渡り、姫川右岸を北へ向かいます。ここは千国街道と千国古道との分岐点です。

 

道標「和平北」から車道へ出ます。

5 虫尾阿弥陀堂

虫尾の集落に入っていくと阿弥陀堂が見えてきます。(写真右)

 

虫尾阿弥陀堂につきました。ここは海抜550ⅿ。

「安産・母乳祈願のお堂」*9

「小さなお堂だが、昔は安産、お乳が出るようにと参詣が絶えなかったという。」*10

 

阿弥陀堂の内部です。

お堂の正面には、消防信号の説明図が掲示されていました。このお堂も防災の拠点だったのです。

石仏群

阿弥陀様の岩清水

お堂の前には水場もありました。

竹の樋からきれいな清水が流れ落ちています。無味無臭、これぞミネラルウォーター!

 

お堂の脇から草むらの道を下り、千国街道は続きます。

 

美しい杉林の中を進みます。

6 下里瀬

杉林を抜けると急に視界が広がり、下里瀬(くだりせ)集落と立山や平倉山が見渡せます。姫川は写真では見えませんが、集落の向こうを流れています。

千国街道は集落を通って左の山(車坂)を越えていきます。千国古道は姫川の向こう(右岸)を通っていて、右の谷(土谷川)へ入っていきます。

下里瀬は「明治以降、千国宿に代わって荷継宿として繁栄した」*11宿場です。

 

下里瀬付近からの立山・平倉山

上の写真の右端中央に小さくローソン小谷店*12の青い看板が見えます。

下の写真は、朝、自宅(安曇野市)から北小谷駅へ向かう途中、そのローソンから300ⅿほど南のあたりで撮影しました。

中央は立山(938.8ⅿ)、左に小さく尖って見えるのは平倉山(823ⅿ)。右に頭を出しているのは立山に連なる峰(912ⅿ)。手前は国道148号と姫川の流れです。そして姫川の右側を大糸線が並走しています。

ここを通るたびに「昔話に登場する里山みたいな、ほっとする風景だな」と思います。

『§14 中綱湖⇒神城 編』の「 42キハダ飴本舗」「今日のお土産」で紹介したキハダ飴の袋のイラストはこの場所を描いたようです。

店主ご夫妻の小谷村を愛するお気持ちが伝わって来ます。

 

集落周辺の農地には動物除けの電気柵が設置されています。野生動物がたくさん出没するのでしょう。

 

実りの秋!稲刈りを待つ棚田。その向こうには柿も少し色づきはじめています。

 

集落へ流れ込む小さな沢ですが、土石流は要注意です。

7 下里瀬薬師堂・石造物群

集落のメインストリートを歩いていくと「長寿地蔵」と道標「下里瀬薬師堂」が見えてきます。

薬師堂は下里瀬基幹センターの建物とつながっています。

「醫王殿」の扁額

内部の様子。提灯や扁額には「瑠璃光如来」と書かれています。薬師如来は「醫王」「瑠璃光如来」とも称されるそうです。

 

薬師堂前の広場です。

大ケヤキの下にあるたくさんの椅子はゲートボール用と思われます。椅子の左にはブランコがあります。お年寄りも子どももここに集って楽しめる広場ですね。

 

民話『下里瀬の薬師さま』*13

昔から、下里瀬の薬師堂は、子どもたちの遊び場と決まっていました。

子どもたちは、毎日お堂に入りこんでは、お薬師様に頬ずりしたり、顔をなでたり、腕や足に触ったりして遊んでいましたが、時には遊びが過ぎて、お薬師さまを倒してしまうこともありました。

 

ある年の冬、雪の多い日のことでした。

暴れん坊の市(いち)が、

「おい!お薬師さまを引っ張り出して、遊ばねえか?」…

「そいつは、おもしれえ。」

春(はる)と茂(しげ)も市といっしょに、お薬師さまを外に担ぎだして、雪の上に寝かせました。

「きっと、雪道は滑るで、おもしれえぞ。」…

お薬師さまに縄をかけて、引っ張り回していましたが、そのうちに、

「今度は、俺の番だ。乗せろ、乗せろ!」…

 

そこを通りかかった塩爺(しおじい)は、この騒ぎを見て、腰を抜かすほど驚きました。

「このがきどもめ、お薬師さまにそんなことして、罰があたるでねえか。」…

 

ところが、塩爺が家に帰りついたとたんに、急に眼がひどく痛みだしました。…

遠くの医者にも診てもらいまいたが、治るどころか、とうとう目が見えなくなってしまいました。…

易者はすぐに、

「こりゃ、お薬師さまの罰があたったのですぞ。」…

 

塩爺は、お薬師さまに二十一日の願をかけに、家の人に連れていってもらい、毎日いっ心に拝み、祈りました。

満願の二十一日の夜、お薬師さまが夢枕に立たれ、

「この間は、子どもらと楽しく遊んでいたのに、おまえはなぜ邪魔をしたのじゃ。わしは、子どもらと遊ぶのが楽しみなのだ。これからは邪魔するでないぞ。」…

塩爺は、お薬師さまに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

朝になり、塩爺が顔を洗っていると、水をすくった指がぼんやりと見え、そのうちに周りの景色もはっきり見えてきました。

 

その話を聞いた村の人たちは、

「ほんじゃあ、子どもたちの遊ぶがに良いように、表戸をとっちまうか。」

「そりゃあいい。お薬師さまとうんと遊んで、良い子になってくんりゃあ、こんなありがてえこたねえぞ。」

 

それからは、毎日のように、薬師堂から、子どもたちのにぎやかに遊ぶ声が聞こえてきたということです。

 

薬師堂の柱には表戸を取り付ける溝などの加工はありません。民話のとおりです。

 

石造物群

大ケヤキの周辺には石造物群があります。

庚申像

牛を供養した大日如来

道祖神や庚申塔

祭神は分かりませんが石造りの祠も並んでいます。

数が多く多彩なことから、この集落周辺の石造物を一か所に集めたのだと思います。

 

薬師堂前の広場の全景です。

扉のない部分がお堂です。その右の扉のあるところには、茅がたくさん保管されていて、賽(せい)の神の日に河原へ運んで焚くそうです*14

油売り(筆者)の住む安曇野でいえば『三九郎』みたいな正月の行事です。(『どんど焼き』の方が一般的な呼び名ですね。)

火の見櫓や消防団の建物もあり、ここは下里瀬の中心部なのだと思います。

8 赤いハチマキ

火の見櫓の隣の電柱には赤いハチマキが巻いてあります。

明治44年(1911)、稗田山大崩落の際、この辺りは大人の背丈近くも水に没してしまったのです。下里瀬の集落は姫川との高低差が小さいので、ダム湖も深く広くなってしまったのだと思います。

 

イラストと街灯

赤いハチマキのある電信柱の上の方には、荷を背負った大きな牛を見ている子どものイラスト、「塩の道宿」の文字、レトロでおしゃれな街灯があります。(この通りには同じ街灯が立ち並んでいます。)

この子どもは、民話『下里瀬の薬師さま』に登場する薬師堂前で遊ぶ子どもかもしれません。

稗田山大崩落で大きな被害を受けながらも、たくましく復興し、塩の道の宿場として生き続け、未来へつなごうとする下里瀬の人々の気持ちが現れているように感じます。

赤いハチマキと牛のイラストは、お薬師様とともに人々の防災意識を高め、次代を担う子どもたちの無事を見守っているようです。

9 牛のつなぎ方

ところで、イラストの牛は牛つなぎ石につながれています。油売り(筆者)は以前から「牛つなぎ石は頭が丸くてツルンとしている。どうやってすっぽ抜けないように牛の手綱をつないでいたのか」知りたいと思っていました。

このイラストでは手綱を石に巻き付けています。何か出っ張りのようなものにも巻き付けています。でも、こんな出っ張りのある牛つなぎ石は見たことがありません。

そこで、油売りの駄説は以下のとおりです。

①牛の手綱の先を牛つなぎ石に巻き付ける。牛つなぎ石は土中に埋められているので動きません。横方向に引いても手綱は抜けません。

②手綱を牛つなぎ石の根もとの地面に置き、上から長い石を載せて押さえ、巻き付ける。これで上方向に引いても手綱は抜けません。

きっと、牛つなぎ石の周りには押さえにする石がセットで置かれていたはずです…。ホントかな?

以上、勝手な妄想です。

 

下里瀬薬師堂から北へ200ⅿほど。千国街道はメインストリートから西の山道へ入っていきます。

10 「車坂」道標

「小谷福祉センター せせらぎ」*15の裏にあります。

小谷村郷土館近くの道標「雨中」からここまで約2.3㎞。

上り坂の始まり。いよいよ車坂越えです。

「姫川の急流・渓谷を避け、下里瀬から車坂-フスベー池原と高巻きの道となる。車坂は急坂であり、難所でもあった。」*16

車坂の上り口に咲く秋桜の花と薄。秋ですね~。

 

左(西)に大きな「大雪倉沢車坂砂防ダム」*17が見えます。

 

砂防ダムを過ぎると杉林の中に入っていきます。長くはありませんが急登です。

11 秋葉社

道標「城の峰」(写真右端)のところに、姫川側へ入る枝道があります(写真左)。

入っていくとすぐに秋葉社があります。岬のように突き出た尾根を平らにし、周囲には石を組んで補強してあります。下を覗くと、足元に姫川の流れが見えます。

近くの山側には下里瀬城址があるそうです。

 

フスベに向かう途中、立山(938.8ⅿ)の丸い姿が見えました。石坂コース南部のシンボルは立山ですね。

 

栃の実が落ちています。熊の餌になるみたいです。

12 ふすべ

「ふすべ」に着きました。

「ふすべというのは、四つん這いになって伏して歩きなさいということ。かつての子どもたちの通学路。姫川の洪水を避けるため、山沿いの危険なところに道を作っている。」*18

道標(写真左上)の隣には「南無阿弥陀仏」と彫られた石造物があります。

「姫川を眼下に見下ろして進む難所。牛馬の転落もあったという。背負い荷は必ず山側へ置き、杖も川側に立てることは避けた。

古老の話に『牛方が暗がりに眠気がさし、曲がり角でがけになっているのも知らず、足を踏み出しそうになったとき、牛が気を利かして止まってくれた。』という。

宝暦3年(1753)の紀行文『千曲之真砂』には『ふすべという大難所あり。少しの間也。下は姫川という大河、上は切たちたるごとき石山也。雪中に雪なだれをり々有て、人馬おし殺せらる、雪の時分は通り難き処なり。』とある。」*19

 

トラロープの向こうには姫川が見えます。「垂直」と感じるほど真下です。冬になって葉が落ちて姫川が見えたら怖くなるだろうな、雪が積もったらなおさら怖いだろうな…。

 

このあたりに「ふすべ石仏」があるはずなのですが、道沿いの少し高いところにあるようで、見落としました。難所なので下ばかり見ていたから目に入らなかったみたいです。

13 平倉山

平倉山*20が見えました。国道148号はこの山の下を「平倉トンネル」で通過しています。

写真中央には姫川第三ダム*21のダム湖と大糸線のトンネルが見えます。

この大糸線沿いの道から写真中央にわずかに見える姫川橋(アーチ橋)*22を渡り、中谷川を遡って行くと長崎・市場で千国古道と交差し、森の中の雨飾高原露天風呂*23がある小谷温泉、そして雨飾山へ至ります。

平倉山の左奥に見えるのは雨飾山でしょうか?

 

平倉山には平倉城址があります。

「戦国期、武田勢を迎え撃つため飯森氏が最後に陣を張った山城。上杉に援軍を求めたが間に合わず、全員が討ち死にしたと伝える。山深い小谷にあっても、山頂からは地蔵・三坂・大峰の峠、南は木崎の猿ヶ城や有明山まで見通せる軍略上の拠点(村史跡)」*24

弘治元年(1556)、武田勢が白馬地方に進攻すると、飯森盛春は一晩のうちに白馬の飯森城を引き払い、小谷の平倉城に拠ったので、飯森城は「一夜城」と呼ばれたそうです。(詳細は『§16 栂池⇒神城 編』の「36 飯森城址」参照)

平倉城の飯森氏は「もう、後がない」状況にまで追い詰められ、花と散ったのでしょう。

 

林道へ出ると「熊出没注意」の掲示がありました。

 

池原の民家が見えてきました。

電柱に掲げられた道路案内図です。油売り(筆者)は車坂方向から歩いて来たのですが、この先は少しずれた四差路になっています。

 

まず、左折して寄り道し、石仏群を見に行きます。20~30ⅿほどです。

14 石仏群(池原下)

ここにも大日如来が祀られています。松本から白馬村あたりまでは圧倒的に馬頭観音が多かったのですが、小谷村に入ると大日如来が増えてきました。それだけこの地域では牛が活躍していたのだと思います。

15 中土駅への道

千国街道へ戻ると、先ほど見た電柱の道路案内図の石坂方向と中土駅方向の分かれ道に突き当たります。

右折してガードレールの道を下ると、900ⅿ(12分)で中土駅*25へ至ります。

16 「池原」道標

分かれ道を直進すると、民家の間の細い道を通って、すぐに中土駅から石坂への車道と合流します。細い道の向こうに見えるのは平倉山です。

車道との合流点に道標「池原」があります。下里瀬の道標「車坂」から約2km。

ちなみに、油売り(筆者)が歩いた時点ではグーグルマップのストリートビューには写っていませんでした。小さな池のほとり、電柱とカーブミラーの根元にあります。

『§21 石坂越え 編(池原⇒松ヶ峰)』へ続く

*1:小谷村観光協会(2022).千国街道

*2:北小谷駅 - Google マップ

*3:北小谷駅 - Wikipedia

*4:南小谷駅 - Google マップ

*5:南小谷駅 - Wikipedia

*6:おたり名産館 - Google マップ

*7:小谷村郷土館 - Google マップ

*8:分(か)去(れ)(わかされ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書

*9:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍

*10:田中欣一(2012).塩の道 歩けば旅びと 信濃毎日新聞社

*11:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍

*12:ローソン 小谷店 - Google マップ

*13:あづみ野児童文学会編(2012).あづみ野・小谷の民話 郷土出版社

*14:年の初めの地区行事・賽の神(せいのかみ)に参加!|〇〇のなんでもやってみっか!第17回

*15:小谷村福祉センター せせらぎ - Google マップ

*16:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍

*17:大雪倉沢車坂砂防堰堤 - Google マップ

*18:【千国街道塩の道】石坂越えコース(歴史観光・トレッキングコース) (youtube.com)

*19:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*20:平倉城跡 - Google マップ

*21:姫川第三ダム - Google マップ

*22:姫川橋(土木遺産) - Google マップ

*23:雨飾高原 露天風呂 - Google マップ

*24:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*25:中土駅 - Google マップ