道は未知 / 大糸線利用で歩く塩の道

千国街道、千国古道、西廻り、塩尻へ

         2023.11.9 錦秋の中綱湖

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千国街道 §21 池原⇒松ヶ峰(南小谷⇒北小谷/石坂越え 中編)

期日

・2024(令和6)年9月24日(火)

コース 

・「池原」道標⇒松ヶ峰展望台:8.2㎞*1

「池原」道標(再掲)

千国街道案内碑

「池原」道標から100ⅿほど。

「街道案内と山男の遭難供養を兼ねている。『春の野の越後の方に道続く』の句を刻む。」*2

17 池原

中央の雲が懸かっているのが雨飾山(1963.3ⅿ)方面だと思います。自信はありませんが…。その左に尖った平倉山(823ⅿ)が見えます。石坂コース北部のシンボルは平倉山ですね。写真では見えませんが、平倉山の麓に姫川が流れています。

「小谷は段丘の上に集落が発達しているのが特徴。」*3池原は姫川の水害を受けることなく、安心して暮らせそうな場所です。

 

池の周囲の美しい花壇。この辺りの民家は、庭先に池を作ってある家が多いようです。

山深い池原には広い農地があります。「桃源郷」という言葉を思わせる豊かな場所です。

 

集落内。大日如来などの石仏群

 

右の石碑には何と書いてあるのでしょうか?

 

見事な石垣と歴史のありそうな民家

 

長い時間の流れを感じさせる、壊れかけた灯篭と石仏

 

秋ですね~。

18 池原石造物群

諏訪神社が道の先に見えてくるあたりに「池原諏訪神社」道標、案内板、石仏群があります。

「池原」道標から500ⅿほど。

木製の案内板。文字は消えかけていますが、「池原…」「塩の道」「糸魚川へ九里八丁」と読み取れます。

相当古そうな石仏群があります。

 

千国街道は車道を離れ、徒歩道を上がっていきます。

すぐに「個人所有のお堂」*4が見えます。行ってみようにも生い茂った草で道が分かりませんでした。

 

千国街道(徒歩道)は車道を横切り、直登して行きます。ここで車道を右へ下り、池原諏訪神社へ寄り道します。

19 池原諏訪神社*5

車道を50~60ⅿ歩くと到着します。池原道標から700ⅿほど。

この神社も大きな杉の森の中にあります。

「石坂・池原・下里瀬の産土神である。棟札によると拝殿は文政9年(1826)の再建。山地の神社にもかかわらず、船の絵馬が二面、糸魚川から奉納されている。杉の巨木に囲まれている。」*6

境内の杉の巨木。杉の太さはこの神社の歴史の長さを示しています。

拝殿

拝殿の側面の壁には大きな矢のようなものが取り付けられていました。これは何に使うのでしょうか?

拝殿の背後にも二股に分かれた杉の巨木があります。

20 池原分校跡

車道を引き返してお堂の上の千国街道へ戻ります。千国街道の坂を上るとすぐ右(東)にあります。

諏訪神社の近くで千国街道沿いにあり、よい場所を学校にしたものです。現在は「資材置き場」の看板があります。

子どもたちの元気な声は聞こえず、今は記念碑だけが残されています。

 

千国街道(徒歩道)は曲がりくねった車道を串刺しにするかのように、直登して行きます。たくましい道です。

木槿の花

21 「穴畑」道標

道標の近くには石仏群も。

道の脇に何やら掲示物がありました。

なんと、農業用水路改修工事のため、穴畑から石坂までの千国街道は通行止め!迂回路(村道池原下来馬線)を歩かなくてはなりません。残念!この区間は後日歩いてみたいと思います。

22 賽の神

工事中

「かつては二軒の茶屋があった。姫川渓谷の対岸には戦国城址のある『平倉山』が目の前に見える。道を上り詰めた峠状の所で越後の山『明星山』を初めて望むことができる。
近くに『せえの神』が祀られていて、夜通るときは薄気味悪くて怖かったという。」*7

「『せえの神』道祖神信仰のひとつで、村や地域の境界や道の辻にある。*8

23 「石坂」道標

左の道が車道(迂回路)、右の徒歩道(草の道)が穴畑からの千国街道です。

合流点に「石坂」道標が建っています。

 

石坂は名前のとおりの急坂。上の方を向いて写真を撮っても棚田は写らず、土手ばかりです。

中央左の白い建物から水平にパイプが伸びています。これは田から収穫した籾米を玄米にする籾摺り作業の際、大量に出る籾殻を土手の下の田畑へ放出するためのものです。

地形をうまく活用しています。山里ならではの知恵ですね!

24 石仏群(石坂)への道

「石坂」道標の下のつづら折りの道から幸田文文学碑付近までは、車道の他に、北側を回るもう一本の道があり、その途中に石仏群があるようです*9。北側を回る道を探して石仏群を見に行こうと思いました。

石坂道標から250ⅿ。車道から浦川の方向へ向かう徒歩道がありましたので入ってみました。稲の束をはぜ掛け(はざ掛け、稲掛け)にしてあります。

 

行き止まりの建物の裏に徒歩道がありました。下ってみます。

 

河岸段丘のような土手を下ります。石坂の集落はこの段丘(土手)の上と下とに分かれており、この道は上と下をつなぐ道のようです。

 

石坂の集落が見えます。左上の大きな銀杏の木の下に石仏群が見えます。

「享保20年(1735)には62戸もあった集落であったが、稗田山*10の崩落で大きな被害を受けた。流されながらも奇跡的に助かった妊婦の話、わらじが松ケ峰の木の枝に引っ掛かっていた話など、哀話が幾つも残る。」*11

 25 石仏群(石坂)

「ぼろ織り工房風良」さんの近くです。*12

ここにも大日如来様

形は分かりませんが、線を彫って何か描いてあります。千国越えコースの南小谷近くにも、無名の旅人の作という線描の鐘馗様がおわしました。(§19 千国越え 編」内の「28鐘馗様」「29小土山石仏群」参照)もしかすると同じ旅人の作かもしれません。勝手な妄想ですが…。

 

石仏群から80ⅿほど浦川の方向へ進むと車道へ出ます。

この道を浦川沿いに下流へ下ると、狸窪(ムジナクボ)で浦川を渡る「崩落以前の道」*13の方へ行きます。でも、現在は通れませんし、石仏群は見れたので、ここまでとします。

車道を上流方向へ上ると、300ⅿほどで幸田文文学碑です。石仏群を見るなら、幸田文文学碑の方から来た方が道が分かりやすいと思います。

 

姫川の向こう側、雨飾山方面の山々です。この山中を千国古道が通っています。あ~、いつの日か歩いてみたい!

26 休憩所

幸田文文学碑の近くに休憩所がありました。「一般の方もご自由にお使い下さい」と書いてあります。壁にはたくさんの掲示物が貼ってあります。

土石流や砂防堰堤などの説明です。この地域にとっていかに大きな問題であるか分かります。

塩の道の各コースの案内です。これは今後の参考にさせていただきます。

27 幸田文文学碑*14

山々を背景にして石碑や掲示板が並びます。広がりがあって、とても気持ちのよい場所です。

掲示板には稗田山*15大崩落の土砂で埋まった来馬川原の写真がありました。まるで土砂の海のようです。土石流というより「山津波」と表現したくなる規模の大きさです。

宿場に押し寄せた土石流。驚くべき状況です。

「歳月茫茫碑由来」の石碑

幸田文文学碑建立の由来が記されています。

建立委員会に田中欣一氏のお名前があります。塩の道について研究され、『塩の道・千国街道』(1982.銀河書房)『塩の道 歩けば旅びと』(2012.信濃毎日新聞社)など、多数の書物を出版された方です。強く心に響いてくる文章で、思わず塩の道の世界に引き込まれてしまいます。

幸田文文学碑です。小説の一部が刻まれています。

「災害の話をききながら歩けば感無量だった。道のべに茂る夏草は、鮮やかに青く、まことに歳月茫茫の思いに打たれる…」

 

この場所の石碑はどれも尖った形をしていて、周囲の山々に調和しています。意図的なのか偶然なのか分かりませんが…。

28 浦川橋

幸田文文学碑から170ⅿほど。

千国街道のイメージからすると、とても大きなアーチ橋です。

橋の上から上流を見ます。

「浦川橋から上流の稗田山を望むと、明治44年の大崩落の傷跡が広がる。『日本三大崩落』の一つといわれる大規模なものであった。

土石流は浦川に沿って下り、姫川にぶつかって高さ63ⅿもの土砂が堆積した。その後姫川が湖と化して約5km上流の下里瀬集落にまで達し、新たな被害をもたらした。

さらにその堆積した土砂が決壊し、下流の日本海までのすべての橋を押し流したのであった。」*16

下流側です。今日は細い流れですが、豪雨の時はこの河原がいっぱいになるほど水が流れるはずです。上流で土砂が流入しているようで、水が濁っています。浦川の怖さが見て取れます。

 

浦川橋を渡ると、すぐに千国街道は車道を離れ、河原の方へ下ります。車道を直進すれば、高車を経て北野へ至ります。北野は…

「石坂から浦川を隔てた対岸の中腹に見える。平家の落人集落と伝える。北野・白川など、京都にある地名が幾つもある。北野天満宮*17を祀る。」*18

 

「浦川橋~松ケ峰間の街道は浦川左岸の工事用道路を歩く。松ケ峰直下は崩落しているが通行可。」*19

 

 

29 「高倉沢」道標

左岸へ高倉沢が流れ込む場所です。

 

短い区間ですが、石段のような岩を踏みしめて歩く難所もあります。

 

沢沿いの道。増水すればたちまち通れなくなりそうです。

「中浦」道標

 

浦川の河原近くを歩きます。

松ヶ峰の無線中継所や展望台が見えてきました。

30 「松ケ峰」道標

「浦川の左岸を半島状に突き出るようにある。先端の小山一帯に『来馬城』*20の遺構が残る。峯には稗田山崩落監視塔(三つの風車塔)がある。」*21

 

道標の近くに案内板があります。

稗田山方面の地形が分かります。

 

「松ヶ峰」道標から車道(舗装道路)を上ると、すぐに松ヶ峰無線中継所へ着きます。

31 松ヶ峰展望台*22

「稗田山崩れ」の説明

「道の分岐点に展望台があって見晴らしがよい。そこにある大きな石は稗田山大崩落の時に浦川から飛んで来たもの。」*23

 

浦川からこの展望台まで大きな石が飛んで来たとは、にわかには信じがたいお話です。しかし、雪崩では似たような事実があります。

「1938年12月27日に富山県下新川郡宇奈月町志合谷(しあいだに:現在の黒部市)で発生した泡雪崩(ほうなだれ)では、黒部川第三発電所建設に伴うトンネル工事の作業員が宿泊していた鉄筋コンクリート一部木造の宿舎で、木造であった3階および4階部分が川の対岸600mまで吹き飛び84人の死者を出している。」*24

「通常の雪崩とは違う桁違いの爆風を巻き起こす泡雪崩は、新幹線のスピードに匹敵する衝撃力を持っていた。(衝撃力 1㎡あたり 30~40t。速度 最大 秒速60~70ⅿ)…

雪崩なので下の方を捜索したがみつからない。おかしい、おかしいと言っていたら、対岸まで吹き飛ばされたと分かった。雪解けの頃になってようやく対岸の岩壁から発見された遺体…。黒部の山の威力に人々は戦慄した。」*25

 

自然の力は人間の想像をはるかに超えます。「大きな石が飛んで来た」というのもあながち根拠のない話とは言い切れません。

 

展望台へ上ります。

浦川の上流方向。大きな砂防堰堤が続いています。

浦川の対岸方向。中央は平倉山のようです。

浦川はこの松ヶ峰の東で姫川と合流します。

北の方角を見ます。姫川の流れの向こうに見える山々。①丸山 ②沓形山 ③地蔵峠・大峠(千国古道) ④跡杉山 ⑤真那板山へ。

 

松ヶ峰から来馬へ向かいます。

「§23石坂越え 編(松ヶ峰⇒北小谷)」へ続く

*1:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*2:田中欣一(2012).塩の道 歩けば旅びと 信濃毎日新聞社

*3:【千国街道塩の道】石坂越えコース(歴史観光・トレッキングコース) (youtube.com)

*4:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*5:諏訪神社 - Google マップ

*6:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*7:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*8:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍

*9:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍

*10:稗田山 - Google マップ

*11:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*12:ぼろ織り工房風良 - Google マップ

*13:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*14:幸田文 歳月茫々碑 - Google マップ

*15:稗田山 - Google マップ

*16:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*17:北野天満宮 - Google マップ

*18:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*19:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*20:来馬城跡 - Google マップ

*21:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*22:松ヶ峯無線中継所 - Google マップ

*23:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社

*24:泡雪崩 - Wikipedia

*25:BSテレ東(2024.12.22放送)秘境黒部百年物語~未来へ紡ぐ守り人たち~ 株式会社テレビ東京