「9 安曇追分駅⇒信濃大町駅 前編(池田駅跡まで)」の続き
コース
・池田⇒仁科神明宮:50分
・仁科神明宮⇒信濃大町駅:2時間*1
15 池田鉄道 信濃池田駅(本社)跡(再掲)
この駅の紹介は「9 安曇追分駅⇒信濃大町駅 前編(池田駅跡まで)」をご覧ください。
池田駅跡から2丁目の信号へ戻り、県道51号を北へ進みます。
16 相馬菓子店*2
次の信号「3丁目」の角にあります。池田町の信号は「〇丁目」が多くて分かりやすいです。
大判焼が名物です。あんこ、白あん、カスタード、1個150円で大きくてあんがぎっしり。
あんことカスタードをそれぞれ縦半分に割り、2種類を裏表に貼り合わせて2個分食べたら昼食代わりになりました。甘くてボリュームもあり、歩き食べには最適です。
17 牛つなぎの石(4丁目)
池田町観光協会作成のマップ*3にあった二つ目の牛つなぎの石ですが、そのあたりへ行っても見つかりません。だいぶウロウロしてやっと見つけました。
1丁目の牛つなぎの石と同じように道路脇にあるものとばかり思い込んでいたのですが、なんとコンクリートの土手の端に、土止め石として組み込まれているではありませんか!
この石の役割も時代とともにすっかり変わってしまったようです。
3丁目の信号から350m。『せりざわクリニック』*4の60mほど手前(南)、道路の右側(東)です。
18 観音堂(池田宿北入口)*5
牛つなぎの石から100mほど。
分かれ道の角に「如意輪観音」と大きく書かれた観音堂があります。
ここが池田宿の北の入り口で、「『池田宿(千国街道)』南北の桝形にはそれぞれ如意輪観音堂があった」*6とのこと。「9 安曇追分駅⇒信濃大町駅 前編(池田駅跡まで)」の「11 十王堂(池田宿南入口)・民話」「12 池田宿南入口の桝形」と対になっています。
観音堂から仁科神明宮を目指し、一本道の県道51号を2kmちょっと。「長いな ぁ~」とつぶやきながら歩きました。
やっと仁科神明宮の入り口が見えてきました。
でも、ここは大型バスなどが通る道のようです。
700mほど先に「表参道」がありますので、そちらへ向かいます。
19 社仁科の里直売所*7
表参道入口の300mほど先に直売所が見えます。「社」(やしろ)はこの地区の名称です。少し寄り道してのぞいてみます。
農産物に混じって、アミタケやハナイグチがありました。今年はキノコがとれない年でしたが、このあたりの山でとれたものだそう。
他にも地元のお母さんたちの「たんぽぽ工房」で作るぼた餅や紫米饅頭が、曜日限定で並ぶそうです。
この日は紫米饅頭があったのでお土産用に購入しました。この記事末尾の「今日のお土産」コーナーで紹介します。
小さな特売所ですが、穴場的な存在のようです。
レジの方に、「仁科の里」の名称は仁科神明宮と関係があるのか、お聞きしてみました。
「仁科神明宮があるので、このあたりは昔から『仁科の里』と呼ばれている」とのこと。「仁科の里」にはよいイメージがあるようでした。
表参道入口へ戻り、坂道を登っていきます。
ところどころに案内表示があります。
20 仁科神明宮*8
一ノ鳥居をくぐり抜け、坂の上に「三本杉」の巨木が見えてきました。仁科神明宮に到着です。
祭神は「天照皇大神」
「大町地方の豪族、仁科氏が伊勢から勧請した鎮守で、仁科文化の象徴的な存在。棟札によると、20年ごとに式年造営が行われていた。棟札は永和2年(1376)のものが最古で現在33面が残り、内27枚が国重文に指定されている。
他の神明造りと違うのは、式年造営で建て替えるのは寛永13年(1636)が最後で、その後は部分修理していたことにある。そのため現存する国内最古の神明宮となり、国宝に指定された。」*9
神門
杉や檜などのうっそうとした森に囲まれ、神聖な雰囲気が漂っています。拝殿や神明造の本殿(国宝)はこの奥にあります。
宝物収蔵庫など見どころがたくさんありますので、後日ゆっくり見学に来たいと思います。
坂道を下り、山の中腹(高瀬川の河岸段丘の上)を通る平坦な道を大町市街へ向かって進みます。
宮本地区の石仏
このあたりは、見晴らしがよく交通量も少なくて、とても気持ちよく歩けました。
21 石仏群(曽根原)
一ノ鳥居から1.2kmほど。「曽根原駐車場」*10の付近です。
盛蓮寺へ向かう道との分岐点に、立派な「塩の道周辺史跡案内図」がありました。盛蓮寺には国重文の観音堂があります。
この周辺には石仏や石造物がいくつも見られます。
紅葉が色づきはじめていました。爺ヶ岳(左)と蓮華岳(右)。秋の空気は澄んでいます。
有明山(左)や餓鬼岳(中央右)を背景に菊の花が見事に咲いています。
県道51号に並行して、こんなに気持ちのよい道があるとは知りませんでした。ここは落ち葉が舞い始める頃にでももう一度歩きたいと思います。
22 佐々屋幾神社*11
曽根原の石仏群から約200ⅿ。
佐々屋幾(ささやき)とは面白い名前の神社です。
杉木立に囲まれた立派な境内
拝殿に神社の由来などの掲示がありました。
「仁品王が家臣の妹を見初めてささやかれた」のが佐々屋幾(ささやき)の由来とのこと。その後、召されて御所へあがり、妹耶媛(いもせひめ)の名を賜って王の妻となり、仁科氏の祖となったといいます。
神社名が古代のロマンの伝承になっているのです。この地に京都風の文化を広めた仁科氏らしいストーリーだと思います。
23 石造物群(閏田)
閏田(うるうだ)は「もとは仁科神明宮の領田があったところという。」*12
変則的な交差点に「塩の道 千国街道」の標柱とともにたくさんの石造物があります。(写真は大町側から振り返って撮影)
草むらに埋もれた石仏たち。
24 大町市民俗資料館*13
石仏群(曽根原)から約1㎞。街道沿いにある大町市社公民館に併設されています。
宮本紙や松崎紙の歴史、製法などが展示してあります。
紙漉きの道具や工程、すべて見ることができる貴重な展示物だと思います。
漉き舟(すきふね)や簀(す)など。テレビ番組で見る紙漉きの場面では、よくこの道具を使っています。
25 思沢
街道沿いのブルーベリー畑が色づいていました。
写真の正面から右へと流れる沢は、思沢(おもいざわ)と言いいます。東の山中にある丹生子城址*14の方から丹生子(にゅうのみ)集落の南へと流れて来ます。
この思沢には次の話が伝えられていいます。
「この沢の南には岩淵落としという難所があり、昔から野盗が出て旅人を苦しめたという。だから、南から来た人はこの沢まで来ると、やれよかったと思い、北から来た人はこの沢で、やれやれ次はあの難所かと、だれもが思ったという。
それで、だれいうとなくこの沢を『思沢』というようになったという。」*15
今はとても美しい場所ですが、昔はとてもとても怖いところだったのですね!
26 石造物群(丹生子)
大町市立民俗資料館から1㎞ほど。「丹生子(にゅうのみ)」とは珍しい地名です。
「中世『千国街道』には3つの関所の記録が残り、保高(穂高)、大町、ここ丹生子である」*16
「社の台地が一番狭まる所で段丘下には高瀬川が迫る。東山にある丹生子城はこれらの地形で格好の要害の地となった所。仁科氏直轄の南端の城。」*17
餓鬼岳を背景に欅や銀杏が紅葉しています。
丹生子を過ぎるあたりにある道祖神です。
中央の道祖神はバランスの取れた美しい形をしています。安定感を感じ、これは頼りになりそうだと思わず手を合わせたくなります。
27 山犬の話
このあたりには山犬(狼)の話がいくつも残っています。*18
「山犬の七夜祝い」丹生子
大変悪い山犬が棲んでいた。或る時丹生子の家の下男が山犬の巣を荒らしたところ、刈敷(木の枝葉の緑肥)を田から引き出したり、馬に危害を加えたりした。
そこで村人が山犬のために七夜の祝い(子が生まれて七日目の祝)をしてやった。そのご馳走には赤飯を炊いて、わらんだ(藁でこしらえた円いもの)の上に盛り、山犬の巣の傍に供えて、村人は酒宴を開いて歌いはやして賑わした。
そうしたら、その後は悪戯をしなくなった。
「山犬の話」(1)宮本
昔は、宮本あたりにもずいぶん山犬が棲んでいた。昭和初年から数えて6、70年前には東の大峰から、夜、高瀬河原の馬捨て場あたりまで出たものだそうである。
七曲りの坂のあたり路傍にチョコンと尻をついて前足を立ててつくなんでいる様は物凄いものだった。道を通るものは『ご苦労様』とかなんとか言って通れば別段何もしない。決して黙って通るものではないと言われていた。
また、夜道をする場合に後をつけられることがあった。決してこちらから手出ししてはならない。もし転びでもすると直ぐさま飛びついて噛む。それさえ要心すれば家まで送り届けてくれた。
よく昼寝時など民家の鶏を盗み食いしたことがあった。
「山犬の話」(2)丹生子
社・丹生子あたりでは、夕方馬を引いて歩くと山犬がついてくるので、馬が恐ろしがって困った。
「山犬の話」(3)大峰山
(大峰山は閏田のすぐ東にあります。)
昔から大峰山には山犬が棲んでいた。明治30年ころ広津村北山區(現池田町)の馬捨て場へ一匹の山犬が現れて、馬を埋めた穴をかきまわしていたところを、その村の吉澤某に見つかった。
某は直ちに近所の人と力を合わせて遂に射殺し、ある家に担ぎ込んで煮て食ったという。
この地方ではその後山犬を見たものがない。大峰山の山犬は、それが最後であったということである。
今はのどかなこの社の道も、昔は山犬だの野盗だのが闊歩していて、旅人にとっては非常に危険な場所だったようです。
28 木舟城*19
街道沿いに木舟城研究会*20が設置したと思われる案内板がありました。
仁科氏が籠城や逃げ込みを目的として築城したと記されています。
「早大岳友会」のサイト内「仁科氏の文化と大町の成立」*21には、仁科氏について次のように記されています。
「南北朝のころの仁科氏は反幕府、反武士でして、早く言えば朝廷側に付いている事の方が多いのです。
しかし時代の流れは武士のほうに向いています。武士の勢いがだんだん強くなっているのに、反幕府、反武士の立場を貫くのです。ですからどの戦いも、全部勝った側に居たためしがない(笑い)。
これはいったい何なのだろうかと考えてみますと、朝廷に特別の繋がりがあったのではなかろうか。
仁科氏の本拠になる大町市の社地区には、いろんな地名だとか寺の名前に京都風の名前を付けていることが多いのです。例えば常光寺、北野神社、もっと南のほうでは木舟という集落があって木舟(貴船)神社があるという風にいくつかの京都風の名前がついています。」
「木舟城」ももちろん仁科氏の命名でしょう。社地区は京都風の文化ゾーンだったのです。
29 瀧之入道標
丹生子から1.5kmほどのところにあります。
「瀧とは『清音の滝』のことで、新引沢に入るとすぐにある。滝への巡礼者向けの道標。滝まで三丁とあり下部に『右 松崎 瀧之入 左 大町』と刻む。」*22
ときどき思うのですが、塩の道は信仰の道とも言えそうです。
このあたりは高瀬川の河岸段丘の上で、後立山連峰を背景に大町市街地を見渡すことができます。
広々とした肥沃な大地、美しい山々。そして仁科氏が伝える京都風の「仁科文化」。
人々が愛着と誇りを持って「仁科の里」と呼んできた理由が分かる気がします。
30 仁科氏居館跡*23
瀧之入道標から300mほど。館之内公民館前にあります。
館之内公民館前には石造物群もあります。
31 仁科神社*24
仁科氏居館跡から大町市街の方へ500mほど。
仁科神社は、木崎湖畔の森城址にもあります。
こちらの神社は、農具川が間近に迫るとても狭い場所にありますので、居館を守る備えとしての意味もあったように思われます。
仁科神明宮からここまで、たくさんの仁科氏関係の史跡が連なっていました。まるで「仁科街道」です。仁科氏と仁科街道については次のようにいわれています。
「千国街道が一名仁科街道と呼ばれているのは、現在の大町付近が古く仁科の里といわれ、11世紀前後には、伊勢神宮の御料地『仁科御厨』が設けられていたためである。信濃では一番古い御厨とされている。(略)
これらの仕事は土地の豪族である仁科氏が、『御厨司』として任命されていた。仁科氏の力が当時いかに大きかったかは、現在残る『仁科神明宮』(御厨明神)が如実に物語っている。
その御厨は、戦国期の初頭まで約500年間続き、荘園文化の花を咲かせたのである。したがって慶長年間頃まで大町付近は『仁科』と総称され、仁科、中仁科、奥仁科といわれ、青木湖以北の小谷地方は『奥仁科』といわれていた。
仁科街道とはその頃の名称である。」*25
32 松崎 和紙*26
仁科神社から500mほど。木崎湖から流れ出る農具川を欄干橋で渡るとすぐに「信州 松崎 和紙」の建物があります。
写真左は原料となる「楮(こうぞ)」の木だそうです。初めて見ました。楮や秋の花々が前に並ぶ建物が工房で、見学や紙すき体験も行っているようです。
写真右奥の建物が販売所になっていて、松崎和紙を使った工芸品がたくさん並んでいました。紙というイメージを超える用途の多様さに驚きました。
訂正します。「販売所」ではなくて「ギャラリー」でした。
「信州松崎和紙は、長久三年(1042年)に、和紙の原料である野生の楮(こうぞ)を使用して、当地に勧進された国宝仁科神明宮の祭用に神社の奉仕人が製造したのが始まりとされています。その後一般農家などの、冬期間の副業として、紙すきの技術が伝承され、発達したとされています。
その背景には、大町市南部を流れる高瀬川の良質な水と、豊富な原料に加え、優秀な紙すき技術によるものとされ、帳簿用紙や、永代保存用紙などは、信濃特産品として愛用され、著しく発展しました。」*27
こちらでは木の葉を紙にすき込んだ和紙のシートを買いました。「今日のお土産」「今夜のお酒」のコーナーで品物を紹介する写真を撮る際、テーブルクロスとして使います。
33 JR信濃大町駅
松崎和紙から1㎞ほど。足も疲れ、駅の北側の踏切を渡るのが遠回りに感じます。
信濃大町駅については次の区間「11 信濃大町駅⇒簗場駅 前編(追分まで)」で紹介します。
駅舎の中に「大町市観光協会」があります。こちらでもらったマップ『KIZAKIKO FOOT PATH MAP』*28が、後日木崎湖畔を歩くときとても役に立ちました。
駅そば 榑木川
待合室に駅そばがあります。JR大糸線の途中駅では唯一の駅そばと思われます。これは何としてでも食べなければ!
なんと「学生さんは大盛無料」と書いてあります!「榑木川」はJR松本駅の0・1番線にもありますが、メニューは同じでも学生割引はないでしょう。
「安曇野産葉わさび蕎麦」(610円)を注文しました。
つゆは色が濃いので醤油味が強そうに見えましたが、口にしてみるとしょっぱくはなく、ほどよい感じでした。辛味のある葉わさびはお蕎麦によく合います。
大町へ車を置きに来るとき、安曇追分駅から信濃大町駅の間が随分遠く感じられてかなり不安でした。歩き通すことができた満足感に、お蕎麦の満足感が加わり、大満足で歩き終えました。
今日のお土産
「社仁科の里直売所」の「紫米饅頭」(180円)
「紫米がモッチモチ。あんこも美味しい!」。あんこの類に目のない人の感想です。
「今夜のお酒」
この日は地ビールと地酒、合わせて3蔵です。一晩で飲むには多すぎるので3回に分けていただきました。
穂高ビールのペールエールとヴァイツェン
いずれも「生 非熱処理」(330ml、税込550円)。
ラベルには鋭く尖った山の峰が描かれています。穂高ビールの醸造所は高瀬川のほとりにありますので、高瀬川上流の針ノ木岳とスバリ岳、その間の針ノ木大雪渓と思われます。それとも槍ヶ岳と千丈沢あたりでしょうか。
ペールエールは、色が濃いのですが、思ったより飲みやすく感じました。飲んだ後さわやかな苦みとフルーティな味わいが続きます。これは好みです!
ヴァイツエンは、少し濁りがあり、きめ細かな泡がよく立ちます。そのためか、泡を飲むような質感を感じました。小麦か野草のような香ばしさがあり、個性的です。
高瀬川の渡しを思い出しながら美味しくいただきました。
大雪渓 アルプス吟醸 生貯蔵酒(300ml 税込704円)![](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/michiwamichi/20240508/20240508080414.jpg)
インターナショナルワインチャレンジ2023 GOLD&部門トロフィー受賞という栄えあるお酒。
香りが華やか。ほんのりとした甘みがあり、後味はスッキリです。少し苦みがあるように思いますが、それが奥深さを感じさせます。
北アルプス 辛口(300ml 税込410円)
すっきりとして飲みやすく、つい飲み過ぎてしまいそうなお酒です。「地域限定酒」つまり地元の人たちが長らく愛飲してきた地酒で、お米の味も感じられます。
お燗酒にするとお米の味や辛さが強くなり、野沢菜でもあれば、なおさらしっかり飲んでしまいそうです。
ラベルは「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」(百瀬慎太郎*29)の詩をイメージしたデザインとのこと。何事か熱っぽく語り掛ける顔、それに対して「俺も」ともの言いたげな顔、二人の山男がしっかりと視線を合わせ、意気投合した様子が伺えます。
語り合いを盛り上げるためのお酒だと思いました。
*1:府川公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*3:まちなか散策マップ『いけだ街中を歩いてみませんか』
*5:如意輪観音堂(池田宿北入口) - Google マップ
*9:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内‐)歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*12:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内‐)歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*15:はまみつを編著(2006).信州の民話伝説集成 一草舎出版
*16:府川公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*17:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内‐)歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*18:大町民話の里づくり もんぺの会制作発行 相澤亮平編著(2019).改訂新版 語り継ぐ大町の伝説<全384話> 有限会社 塩原書店
*20:木舟城研究会 – 長野県内最大級の山城跡を守る (shinano-omachi-kibune.jp)
*21:『仁科氏の文化と大町の成立』- 大町の歴史探訪 - (cside.com)
*22:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内‐)歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*25:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*27:信州松崎和紙工業 (shinshu-matsusakiwashi.com)