期日
・2024(令和6)年11月20日(水)
コース
・大網諏訪神社⇒大網峠:2時間30分(4.4㎞)*1
今回は1泊2日で下記のコースを歩きました。この中編では1日目のフォッサマグナパーク駐車場から大網峠までを紹介します。(時間はコースタイムです。実際はもっとかかりました。)
11月20日(水)
自宅(車)⇒フォッサマグナパーク駐車場に車を置く(徒歩9分)⇒JR大糸線根知駅(ディーゼル車20分)⇒平岩駅(タクシー10分)⇒大網宿(徒歩2時間30分)⇒大網峠(徒歩1時間35分)⇒山口・塩の道温泉前(糸魚川バス根知線20分)⇒根知駅前(徒歩9分)⇒フォッサマグナP駐車場(車15分)⇒糸魚川市内(宿泊)
11月21日(木)
宿(車15分)⇒フォッサマグナP駐車場に車を置く(徒歩9分)⇒根知駅前(糸魚川バス根知線20分)⇒山口・塩の道温泉前(徒歩1時間5分)⇒仁王堂(徒歩20分)⇒フォッサマグナP駐車場(車)⇒自宅
項目の番号は、§25~28(大網峠越え 前編・中編・後編、山口⇒仁王堂)の通し番号になっています。(再掲)の付いた項目の詳細は、その番号の記事をご覧ください。
計画を立てるのはとても楽しかったのですが、果たして計画通りにいくのか、楽しみと共に若干の不安も抱えながらの出発です。
21 フォッサマグナパーク駐車場*2
朝、まだ暗かったため、駐車場から根知駅までの写真は別日に撮影したものを使用しています。
国道148号沿いにあります。フォッサマグナパークの駐車場ですが、小谷村や糸魚川市では、塩の道歩きに利用できる駐車場として紹介しています。トイレがあります。
南へ50~60ⅿ。フォッサマグナパークの入り口があります。根知川に沿って遊歩道があるそうです。
すぐに根知川を渡ります。(国道148号)
橋の親柱にはボッカのレリーフ。塩の入ったでっかいカマスを背負っています。後で写真を見て、ブナのようなスッとした木立や雨飾山のような山が見えるようで、大網峠の風景のように感じます。仏様も見守っています。
橋の上から根知川上流方向に目を向けると、大糸線の鉄橋と駒ヶ岳(標高1,487ⅿ)がよく見えます。駒ケ岳は全国にたくさんあるので「頚城(くびき)駒ヶ岳」とか「海谷(うみたに)山塊駒ヶ岳」と呼ばれているそうです。
根知川を渡ると、国道148号は、すぐに東の根知谷へ入って行く道と分岐します(信号「根知谷入口」)。根知には塩の道に関連した魅力的な観光資源がたくさんあります。
22 根知駅*3
フォッサマグナパーク駐車場から600ⅿほど。
「1934年(昭和9年)11月14日:国有鉄道大糸北線として、当駅 - 糸魚川間開通と同時に終着駅として開業。」*4
駅前にある根知の案内板
駅舎の外壁にある案内板
駅舎内の時計の下には「海抜90ⅿ」とあります。
ホームへの出口にある注意書き。何だろうと思って出てみたら…
すごいレトロな電話ボックスでした。
ディーゼル車に乗って平岩駅へ向かいます。
23 平岩駅*5
乗車時間20分で『§25 大網峠越え 前編』でも利用した平岩駅へ着きました。平岩駅や姫川温泉などについては、そちらをご覧ください。
ディーゼル車から下りると、葛葉峠や白馬大仏(中央右)が見えます。
標高440ⅿの葛葉峠には雪がないようですが、その向こうのもっと高い山は昨日の雪で白くなっています。『標高835ⅿの大網峠にも少しは雪があるかもしれない』と気持ちを引き締めました。
駅前から予約しておいたタクシーで大網へ向かいます。
11 大網バス停前(再掲)
平岩駅から約2.4㎞。タクシーで10分ほど。大網集落の入り口にあるバス停前の広場に着きました。
タクシー代は1,300円でしたが、他に迎車回送料金が3,500円かかりました。タクシーが遠く離れた場所から来るためです。
年金生活者の油売り(筆者)にとってはお財布が痛い金額です。でも、大網峠越えは千国街道一番の難所といいますので、平岩・大網間の歩行(上り道)約1時間は省きたいと思いました。それに、通行止めの区間を除いて既に歩きましたし…。
そしてこの日、結果的に体力を温存しておいてよかったと思うことになりました。
バス停前の広場。ここから大網道標までは『§25 大網峠越え 前編』もご覧ください。
大網の集落を見守るような雨飾山。日本百名山のうちの一座で標高1,962.2ⅿ。
「糸魚川から見ると双耳峰、ピークが二つ。焼山の方から見ると形が違う。小谷村側から見るとどっしりした姿。大所や蓮華温泉へ行く木地あたりから見るとマッターホルンみたい。雨飾山には四つの姿がある。」*6
大網峠の方向を見ると、さほど白くなっていません。行けそうです。
12 大網道標(再掲)
大網バス停から120ⅿほど。
大網諏訪神社と道を隔て、高札場跡に建っています。ポールは雪が積もった時、道路の路肩を示す目印です。タクシーの運転手さんの話では、このあたりは3ⅿくらい積もるそうです。
大網道標に記してある「右 葛葉峠」へ進むと、用水路沿いに南の方へ向かい、『消火栓の道』を通り、平岩へ下ります。ただし、現在、「荷改の峰」道標から先は通行止め。(『§26 大網峠越え 前編』をご覧ください。)
今日は道標から用水路沿いに北へ進みます。
大網の栃餅・つちのいえ
道路の左(西)側に『大網農山村体験交流施設つちのいえ』があります。
「様々なイベントやワークショップを開催したり、宿泊者の受け入れ、集落のお茶会、栃餅の製造など行います。『つちのいえ』という名前には、種を蒔く場所、芽を出す場所、成長する場所になるようにという思いが込められています。」*7
小谷村CATV【おたりがぶったch】の番組『おたりのおしごと 第5回 大網地区「くらして」』*8によると、Iターンして大網に住むふたつの家族が『くらして』*9を立ち上げ、栃餅の加工・販売などをしています。栃餅は笹野集落のさらに上の方に自生する栃の木の実を使い、大網に伝わる昔ながらの製法で作っています。
だいぶ以前のことですが、道の駅 小谷で栃餅を買ったことがあります。独特の食感がありとても美味しかったのですが、その後出会えませんでした。販売時期が限られているのでしょう。
この日の道歩きがきっかけで、『くらして』さんには通販もあることを知りましたので、時期になったら入手したいと思います。
道の突き当りにある道標。ここでちょっと間違えました。
道標に向かって左側に「大網峠越え」とあるので、左へ進みました。でも方角が違うようです。
地図で確かめると、道標の右側の細い道が千国街道でした。
すぐに山の方の徒歩道に入って行きます。
大網宿
振り返ると、大網宿が見渡せます。
「小谷三宿(千国、来馬、大網)の一つ。大網宿は沢を越えると上杉謙信の世界、越後方なんです。県境はもっと先なんですが。塩が運ばれてくるとここで必ず荷を積み替えて松本へ向かった、荷継ぎの要衝の場。千国の番所の支所があった。
年に2万頭の牛が通ったというところ。牛の声がモウモウと聞こえて賑やかだった。」*10
「大網は、明治期に二度もの大きな火災にあい、ほとんど当時の面影を残していない。」*11といいます。
千国の牛方宿の隣にある塩倉は、大網にあったものを移築・復元したものだそうです(『§19 千国越え 前編』参照)。大網宿も千国宿のように塩倉、牛方宿、大きな民家が立ち並び、もし残っていればさぞ壮観だったことでしょう。
そういう繫栄した集落がこの山中にあるというのは、想像しただけでも不思議な感じがします。
百八十八ヶ所供養塔(左)と二十三夜塔(右)
「四国八十八ヶ所」は空海(弘法大師)ゆかりの霊場ですが、「百八十八ヶ所」はあまり見聞きしたことがありません。
調べてみると、群馬県吾妻郡中之条町に「百八十八観音」がありました。
「江戸時代に建立され、この1箇所で全国の観音霊場188箇所全てご利益を得られるとされています。」*12
この供養塔も同じような願いから建立されたものだと思います。
二十三夜塔は…
「旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔である。
…月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、『講中』と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。…
文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。」*13
村はずれの空の開けたこの場所に人々が集って月を拝んだのです。
街道の隣はかつての旧大網分校の校庭。かつては雨飾山が大網の子どもたちの成長を見守っていました。現在は「阿弥陀ヶ原会場」と呼ばれ、2月の火祭りの会場となっています。*14
(火祭り)「例年2月第2土曜日に長野県内で、唯一日本海が見える新潟県境の大網地区にて開催されるお祭りです。厳しい冬が終わり、春が来る節目の頃に1年がよりよい年であるよう、雨飾山の神様にお願いするために行われます。」*15
民話『大網の阿弥陀堂』*16(要約)
大網の里に行者がやってきて、芝原の平らな草原に座り、雨飾山を眺め、「見ればみるほど、わしの心を引きつけるやまだのう。」と草庵をひらきました。
ある日、朝のお勤めをしていると、空中に金色の阿弥陀さまが現れました。「阿弥陀さま、お待ちくだされ。」行者が一歩進むと、空中の阿弥陀さまも一歩先に進んでいきます。とうとう雨飾山まで来てしまいました。
「おーい、おーい。」と呼ぶ声がしました。熊を追いかけて来て、吹雪で動けなくなり、岩穴へ逃げ込んでいた漁師の塩六でした。
塩六は岩穴で年老いた立派な坊さまから「春になって行者がこの山を登って来て、お前を助けるだろう。それまで辛抱して待つのじゃ。」かき消すように見えなくなりました。
「行者さまが来たら『岩穴にある阿弥陀さまを、二人で山から下ろし、里で安置してもらうように』と言われました。」
ふたりは阿弥陀さまを芝原の草庵の脇に安置し、お守りしました。行者は、里の子どもたちに読み書きを教えたので、『学問行者さま』と呼ばれるようになりました。
何年かして、大網では、りっぱな阿弥陀堂を建て、阿弥陀さまをお祀りしました。この阿弥陀さまは、行基さまが雨飾山の岩穴で彫ったものだとも伝えられていますが、今は残っていません。
今では、毎年三月十五日に、村の人たちが阿弥陀堂へ集まって、「大網念仏」と唱え、団子撒きをしてお祭りをしています。
芝原、雨飾山、阿弥陀堂、阿弥陀ヶ原…、つながりそうです。それにしても、『行者が一歩進むと、金色の阿弥陀さまも一歩進む」はブロッケンの妖怪(現象)*17を思わせます。『塩六』という『塩』の付く名前もいいですね。
阿弥陀ヶ原の道沿いには石仏がたくさんあります。
紅葉に囲まれる仏様
24 芝原の石仏群*18
石段を上るとすぐに阿弥陀ヶ原です。
街道沿いに立ち並ぶ大勢の仏様たち(大網宿側から撮影)
「塩の道 大網峠道」「往還安全の為石仏群」「大網睦み会建立」の標柱。(大網峠側から撮影)
25 大網の六地蔵
大網道標から0.3㎞(20分ほど)。阿弥陀ヶ原から山道を登り始めるところにあります。
「六地蔵は、昔火葬場があった場所にまつられていることが多い。」*19といいます。集落から横川の吊り橋へ行く途中に火葬場があったという話*20がありますが、もしかするとこのあたりかもしれません。
このあたりは大網の人々の信仰上の聖地のように思われます。阿弥陀ヶ原は雨飾山に見守られ、六地蔵や芝原の石仏たちは雨飾山を背にしています。聖地にふさわしい場所だと思います。
時の流れとともにお顔の表情やお姿(姿勢)が一体ずつ変わってきたのでしょうか。
大網峠への上り坂から振り返ると、六地蔵は千国街道沿いに立って旅人を見守り、供養する人々を阿弥陀ヶ原へ迎え入れるかのようです。
杉と紅葉の中を進みます。
道は水が流れ込んで沢のようになっています。横川の吊り橋まで下り道です。
小さな池塘がありました。
26 下清水道標
「つづら折りの道を「上清水」(かみしょうず)「下清水」(しもしょうず)と続き、林道と合流すると「イチゴ平」(越後平)にでる(茶屋があった)。そこの標柱は平成7年の災害で流され、なんと柏崎の椎谷(しーや)の浜場に打ち上げられ、地方の方の善意で戻ってきたもの。」*21
中央に道標があります。柏崎まで流された標柱は見当たりませんでした。
休み石と標柱
小さな沢と木橋
横川の渓谷が足元に見えてきました。
民話『横川から消えた魚』*22(要約)
昔、横川に、為吉という、魚を捕るのが上手な男がいました。
為吉が、粗末な衣を着た坊さまから「ここらへんに、わしを泊めてくれる家はないかのう。」と声を掛けられます。「この先のお堂で休みゃいい」とそっけなく言いました。
坊さまは、「おらの家では、旅の坊さまは、親切に持てなすってきまりだ」という竹吉の家に泊めてもらいました。
翌日、坊さまは魚をたくさん釣っている為吉に、「魚を一匹でいいから、ゆずってくれんかのう。昨夜泊めてくれた家にお礼をしたいのだが」と頼みました。しかし、為吉は「今日は一匹も釣れねえだよ。」と言いました。
その後、横川の吊り橋の下では、魚が獲れなくなりました。粗末な着物を着た旅の坊さまは、弘法大師さまだったともいわれています。
「横川」は大網宿から長者平(千国古道)へ向かう道にあり、今は廃村となっている横川集落のようです。「吊り橋」は『横川の上橋(かみばし)』、「お堂」は阿弥陀堂のように思われます。
そういえば大網の集落内で漁協の『遊漁のお願い』(再掲)を見ました。(§25 大網峠越え 前編参照)
40年くらい前に買った古い渓流釣りの地図『釣りの長野県』*23には横川にも「イワナ」と記されています。『信州の清流釣り』*24にも「(上流の)前沢の合流点から上を丹念に攻めると面白い」と書いてあります。魚は現在はいるようです。
27 横川の吊橋
地図*25のコースタイムは、六地蔵から1.1㎞(10分ほど)ですが、実際にはもう少し時間がかかると思います。
渓谷が深く厳しくなった頃、吊り橋に着きました。海抜270ⅿ。
「かつては吊り橋ではなかった。四尺角の柱にして、10ⅿ以上あります。それを四つ並べて、横板を貼って、砂をまいて下が見えないようにした。」*26
吊橋を渡ります。なかなかの高度感です。橋の向こうの岩の前に道標が見えます。
上流方向の渓谷
下流方向の渓谷
「横川の吊り橋」道標。「右 下清水茶屋跡 0.3km」「左 滝ノ平・牛の水飲み場 0.5㎞」
横川の吊り橋は標高270ⅿ。大網峠は835ⅿ。高低差565ⅿの結構急な上り道です。
「だいたい13町という話があります。キヨ沢といいますが、1.3㎞の沢筋の道がここから始まります。」*27
「断崖上にあって危険であるが、両岸が迫っていて吊り橋を架ける絶好地。両岸が岸壁であるので流される恐れがない。
上流に架かる橋も『横川の吊橋』であるため、区別するために上流の橋を『横川の上橋(かみばし)』下流にある橋を『横川の下橋(しもばし)』といった。」*28上橋は千国古道「鳥越峠越え」コースにあります。
橋のたもとは、岩壁の上に石垣を積んで道を作っています。
急な登りにはロープが張ってあります。
上るにつれて紅葉が美しくなりました。
姫川対岸の山々が白く見えます。
28 大日如来
『大日如来はまだかなぁ』と振り返ったら、道の少し高い所に鎮座していました。振り返らなければ見落としていたと思います。
「馬頭観音・大日如来は家畜や荷物を運ぶ牛馬の守り神で、亡くなった牛馬の弔いに建てた石仏が街道に多く見られる。」*29
「ここが大網峠道の一番の難所で、避けるところがないくらいの道。牛が谷に落ちて亡くなったという話をよく聞きます。もちろんボッカさんも。牛を供養した供養塔が大日如来なんです。脇に波阿弥陀仏という(?上人の)碑があります。」*30
「ここは、無事に渡れますように、渡ったらありがとうございますと手を合わせる場所です。」*31
深くはありませんが渡渉します。防水性のあるトレッキングシューズが必要になります。雪どけや梅雨の時期で水量が多いときは、ハイカット+スパッツがよいと思います。
美しい紅葉に囲まれた沢沿いの道を気持ちよく歩きます。
流れ込む滝
高さ3ⅿくらいのナメ滝の下を渡ります。
トラロープありです。
29 牛の水飲み場
ナメ滝の上の岩に窪みがあります。
「街道は小さな滝の岩盤上を横断するが、その岩盤に深さ約20㎝・直径約30cmの穴が数ヶ所掘られている。牛馬が水を飲みやすいようになっている。」*32
「滝ノ平(ひら)」。ここは牛の水飲み場です。
「松本へ行く牛、越後へ行く牛が行き交った。お互いに『こっちが先だぞ』と声を掛け合った。それが唯一開けた場所がここ。ある意味、休憩の場所。それで牛が水を飲んだ。」*33
どこを見ても美しい、紅葉の道が続きます。
紅葉の中にユキツバキ。
ツバキの葉は輝いています。
ユキツバキが連れてきた雪。『いよいよ雪の道になるかな…』
沢の向こうの道は崩れていて、トラロープが張ってあります。(写真右上の隅)
迫り来る崩落!危うし、千国街道!!ここもロープ伝いに、足音を立てずに進みます。
なお、小谷村のホームページ内に『塩の道千国街道(小谷村内)道状況のご案内』*34があります。「『牛の水飲み場』~『菊の花地蔵』一部区間にて、足場が不安定な箇所があります。通行の際は、足元に十分ご注意ください。自信のない方はルート変更をご検討ください。」とあったのは、この場所のようです。
ユキツバキが増えるとともに雪の量も増してきました。
姫川と対岸の山が見えます。
30 菊の花地蔵
横川の吊り橋から1.2㎞(40分)。急な上り道はここまで。紅葉が美しく、見どころも多く、さほど苦にならずに歩けました。
「『菊の鼻』(鼻は張り出した地形を指す地名)とも言う。下屋敷の近くで木戸(柵)を置いた所。その先の沢を『木戸が沢』という。
地蔵は横川の吊り橋から沢沿いの道を一気に上りきり、峰状の所にある大きな杉の下に佇む。ここから峠まではなだらかな道で、素晴らしいブナなどの原生林の道が続く。」*35
木戸(柵)を置いたのは、この先の「15屋敷跡」と同じく上杉方です。一方の武田方も負けていません。
「上杉方へ備えるために大網宿へ人を移住させる。移住した者は3年間無税にすると人を集めた。だから武田とか、竹田(ちくだ)とか、両角とか、原とか、武田の武将につながる名前かどうか…、それで大網宿が出来上がった。」*36
その時代、このあたりは武田・上杉のせめぎ合いの最前線だったのです。危険地帯です。
道標の後ろの杉の巨木の根元にお地蔵様がおわします。杉の巨木は雪崩からお地蔵様を守っているかのようです。
永年の風雪に耐えて来られたお地蔵様
大網宿から長者平(千国古道)へ向かうところにある笹野の集落が見えます。屋外の放送もここまで聞こえてきました。
「江戸時代の話では、牛の一行が来ますね。(下の家の)我が家で飼っている牛もいるわけです。峠を越えてくるとモ~と鳴く。すると下の家のおかみさんが『あ、おらんとこの牛だ』と言って、夕餉の支度にかかった。下へ降りる頃にはちょうど食べごろだった、と。だから『菊の花』は『聞く』の方ですね。そういう話があります。」*37
この風景は、北からの旅人を『あともう少し』と励まし、南からの旅人には『信州とお別れだよ』と告げたのでしょう。
日当たりがよく、カエデやブナが美しい、実に気持ちのよい道です。
このあたりには炭焼き小屋の跡があるそうです。人が手を加えたような不自然な地形がないか、歩きながら見ていきました。
ここはブナの木の周りがえぐれているので、穴焼きの穴かも…。
低いところはしっかりと雪があります。
31 茶屋・住居跡
広い場所に出ました。道標があります。(右端)
「比較的平坦な場所に住居跡、炭焼き跡、田畑、お地蔵様、お墓がある。
元禄時代の『信越国境争論』の中で大網峠に『上屋敷・中屋敷・下屋敷』があって、上杉謙信がここに家来を置いたと幕府へ証言している。
茶屋や歩荷宿も営んでいた。明治頃まで生活をしていた。」*38
斜面を削って平らな土地を作った跡と思われる土手があります。
沢が流れ込む平らな場所。田畑があった場所と思われます。
「その向こう側にも田んぼが何枚も、何十枚もあった。炭焼きの窯はいっぱいあります。かつて華やかな時代は、街道を人がいっぱい行き来していた。」*39
「大網は南北の口に茶屋があって、そこの前の厠の垂れ菰がそよと動く程の風があっても、ボッカは荒れる前兆として越えることをやめた。
この茶屋は普通の旅人にも周到な注意を払って、防寒の用意として唐辛子を持たせ、決して酒を飲ませず、雪に遭ったときは、進退何れをもせずに座り込み、雪の埋むるに任せて長い杖を立てて絶えず動かしながら、雪踏み人足の救助を待つように教えるという。
雪踏み人足は、雪の降りやむと共に村々から競って出で、カンジキで丈余の雪を踏み固めるのである。こうして、沿道の人々の協力によって、ボッカや牛方の道は守られていた。…
しかしながら、吹雪、雪崩、積雪、こういった自然条件の中で、多くのボッカたちが生命を失っていった。千国街道のあちこちに点在する、無数の石仏や石塔は、ボッカ業にあるいは牛方業に生命を捧げた人々への、生存者の祈りの規約であったのかもしれない。」*40
32 ユキツバキの群落
花は咲いてないけれど、雪の積もったユキツバキがたくさん見れました。
青(空)、赤・黄(紅葉)、緑(ユキツバキ)、そして白(雪)。
ここはユキツバキの花期(4~6月)、新緑の頃に歩いても最高だろうと思います。
雪をかぶったムキタケ。猛毒のツキヨタケに似ていますが、こちらは皮がツルンとむけましたので、間違いなくムキタケ。
お鍋に入れるとおつゆをたっぷり含み、ツルンとした食感があり、とても美味しいキノコです。
標高が高くなるとユキツバキは姿を消し、ブナの世界になります。
33 屋敷跡
先ほどの住居跡よりも広い平地が何段も造られています。
『13茶屋・住居跡』で紹介した「元禄時代の『信越国境争論』の中で大網峠に『上屋敷・中屋敷・下屋敷』があって、上杉謙信がここに家来を置いたと幕府へ証言している。」*41というのはこの場所ですね。
沢沿いの道には、転落防止のロープが張ってあります。
空が広くなりました。峠が近づいてきました。
でも、道は悪路になりました。雪どけ水が流れて沢のようです。長靴がほしくなります。
道は水を避け、左の雪の上を進むと思うのですが、まだ誰も歩いていません。雪で地面の踏み跡も見えません。果たして前進してよいのか迷うところです。
トラロープがあるので間違いなさそうです。それでも、念のためヤマップ*42で自分の位置を確かめてから前進しました。
沢の水が枯れました。源流です。この沢をツメれば大網峠へ出るはずです。
空とブナと雪と落ち葉。一人で歩く踏み跡のない道。この景色は忘れません。
34 大網峠・『牛方山姥』
沢の上部を右(東)へひと曲がりすると…
雪道の先に道標が見えてきました。大網峠到着です。
大網峠越えは千国街道最大の難所といわれますが、横川の横断、滝の渡渉などがあるうえに、転落の危険がある狭い道が長く続きました。横川の吊り橋から峠まで、高低差530ⅿの急な登りの長さは街道随一です。そのうえ、思ったよりも雪がありましたが、無事、峠まで来れてホッとしました。
平岩から大網までタクシーを利用し、体力を温存しておいてよかったです。それと今日は小春日和のよい条件。天気予報の降水確率は20%です。油売り(筆者)は40%あれば歩きません。
菊の花地蔵から1.8㎞(80分)。
「大網(おあみ)峠(海抜840ⅿ)の下にはかつて茶屋・宿があり、ボッカや牛の休憩場所だった。」*43
「戸倉山と雨飾山を繋ぐ峰にある。付近は原生林で、特に峠から南のブナ林は美しい。森林に囲まれるため見通しは聞かないが、木々の間から雨飾山がみてとれる。峠はちょっとした広場になっている。」*44
「大網峠は正月を除いて、ボッカさんの歩かない日はなかった。5月の八十八夜までボッカさんの世界。雪が消えると牛の世界。11月、12月、冬至が来るとまたボッカ担ぎが始まる。使い分けていた。
ボッカが本領発揮するのは冬。50㎏背負って真冬も峠を越えている。信じられない。塩は何物にも代えられない生活物資だから。」*45
こちらは糸魚川の方で設置した道標。糸魚川では「松本街道」と呼ぶようです。道の名前は行先で付けられることが多いからでしょう。
「峠は文化の通風孔。峠なくして文化は入ってこない。越後の目の不自由な瞽女(ごぜ)さんも良寛さんも歩いている。いろんな江戸時代の文人墨客がここを歩いている。
大網峠は越後からの信州三口の一つ。ここと、野尻湖越えと、栄村。」*46
民話『三十郎と山姥』*47(一部抜粋)
三十郎という牛方がいました。毎日牛を追って峠を越え、越後(新潟県)から魚や塩を牛の背に積んで、大網(おあみ)まで運んでいました。
ある日のこと、二頭の牛の背中に干鱈を積み、峠に差しかかると、白く長い髪を体に巻きつけながら山姥が出て来て、
「干鱈を一枚くれとくんな。」
「だめだ!だめだ!大網の庄屋さまに持ってかなきゃいけねえがだで…。」
「そんなら、干鱈も牛もみんな食っちまうぞ。」
三十郎はこわくなって、干鱈を二枚抜き取ると、遠くへ投げました。
「もう一枚くんろ。」
「もう一枚くんろ。」
三十郎は、干鱈をそっくり投げつけて、牛の尻をパシンパシンとたたいて逃げだしました。
「その牛をくれ!」
三十郎は牛を放ったまま、山道を一目散に逃げました。茅葺の一軒家に逃げ込み、たか(厩の二階)へ上がりました。
そこへ山姥が息をふうふうさせて入って来ました。
「三十郎の奴を逃がしたのは惜しかったなあ…。」
山姥は、囲炉裏端に網をかけて餅を焼きはじめました。三十郎は、屋根裏から茅の棒を引き抜いて、餅を突き刺して引き上げ、食べてしまいました。
「ありゃりゃ、おれの餅をだりゃあ食っちまっただ!」
「火の神…、火の神…」
「なに?火の神じゃと…。それじゃ、おじや(雑炊)でも煮るとするか?」
三十郎は上から竹筒を鍋の中に入れ、おじやを食べてしまいました。
「だれだ!おれのおじやを食っちまったもんは?」
「火の神…、火の神…」
「へんなこともあるもんだ。」
山姥は木の唐櫃にもぐりこんで、すぐにいびきをかいて寝ました。
三十郎は唐櫃のふたに錐で穴を開け、ぐらぐら煮え立った鍋の湯を、いっ気に穴から注ぎ込みました。
少したって、唐櫃のふたをとってみると、中には大きな山蜘蛛の死体がありました。
同じようなお話は、峠を下った根知にも伝わっています。*48
このお話は、峠を通って大網から根知へ(あるいは根知から大網へ)伝わったのでしょう。まさしく「峠は文化の通風孔」です。
ちなみにこのお話は大網や根知だけでなく、全国各地に残っているそうです。こういう面白いお話は日本人の共有財産です。
葉を落とした木々の間に雨飾山らしきシルエットが見えました。
大網峠に残した油売り(筆者)の足跡。写真にしっかり写るように、道標の前を行ったり来たり。自己満足の一枚です。少しばかり満足感にひたったら、山口関を目指して大網峠を下ります。
なお、小谷村のホームページ内に『塩の道千国街道(小谷村内)道状況のご案内』*49があります。後日閲覧したら、「 令和6年12月2日更新 積雪が確認されましたので通行止めになります。」と注意喚起がありました。こちらの情報は歩く前に要確認です。
『§27 大網峠越え 後編(大網峠⇒山口)』へ続く
*1:小谷村観光協会(2022).千国街道 塩の道を歩く
*6:おたりがぶったTV|第19回 信越国境・大網峠の森と池めぐり
*8:おたりのおしごと|第5回 大網地区「くらして」 - YouTube
*10:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*11:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*12:百八十八観音|江戸時代に建立。1度で188箇所を巡る全国の観音霊場全てのご利益が得られる【中之条町入山】
*16:あづみ野児童文学会編(2011),あづみ野小谷の民話.奥村印刷所
*18:芝原の石仏群(千国街道・塩の道古道) - Google マップ
*19:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*20:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*21:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*22:あづみ野児童文学会編(2011),あづみ野小谷の民話.奥村印刷所
*23:改訂新版 釣りの長野県.(有)釣りガイド・マップ社.著者や発行年月不詳
*24:麻沼和男(1991).信州の清流釣り.日本文化社
*25:小谷村観光協会(2022).千国街道 塩の道を歩く
*26:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*27:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*28:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*29:別府公広(2009).古道 塩の道 ほおずき書籍
*30:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*31:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*32:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*33:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*34:塩の道千国街道(小谷村内) 道状況のご案内 - 小谷村
*35:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*36:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*37:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース) - YouTube
*38:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*39:【千国街道塩の道】大網峠越えコース(歴史観光・トレッキングコース)
*40:亀井千歩子(1980).塩の道・千国街道 東京新聞出版局
*41:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*42:YAMAP / ヤマップ | 登山をもっと楽しく、登山情報プラットフォーム
*43:小谷村観光協会(2022).千国街道 塩の道を歩く
*44:田中元二(1997).塩の道千国街道 詳細地図 古道案内ー歩く人のために‐ 白馬小谷研究社
*45:おたりがぶったTV|第19回 信越国境・大網峠の森と池めぐり - YouTube
*46:おたりがぶったTV|第19回 信越国境・大網峠の森と池めぐり - YouTube
*47:あづみ野児童文学会編(2011),あづみ野小谷の民話.奥村印刷所
*48:中村栄美子 文(2007).糸魚川 民話の旅.新潟美術学園 デザインルーム